Longtail`s Cafe Fine Graphics

私はジェイムズ・ローゼンクイストの絵画のような、具象と抽象が混然と同居し、また、瞬時に入れ替わるような表現スタイルが好きだ。
意味に集約する意識と意味から解き放たれる意識。この記号化と反記号化を行き交う思惟の反復運動こそ、コンテンポラリー・アートにおける最高の愉悦だと思っている。
物質と非物質、過去と現在、聖と俗、悲劇と喜劇。つまり多義性。同時にさまざまな象徴であり得ること。
カオス。しかしカオスとは一見、混迷を指すもののようでいて、実は厳格な秩序である。
かつて私は1987年の横尾忠則展のための展覧会カタログに中沢新一が次のような話を寄稿しているのを読んだ。
彼がネパールに滞在中、あるチベット僧とアメリカの若者との間で小さな論争が起こった。
チベット僧は月面には一面に黄色い花が咲き乱れていると主張し、アメリカの若者は、アポロの月面探査を拠りどころに、そんなことはあり得ないと反論した。
チベット僧の言うには、月を最初に訪れたのはあるインド人であり、アメリカ人よりも遥か昔、何かサイキックな方法を使って到達したのだと言う。
そしてそこに黄色い花が咲き乱れているのを認めた。だからあなたも「心の眼」を使って、ものごとの本質を捉えなければいけない、と言ったというのだ。
中沢新一の解説に拠れば、恐らくこのチベット僧が言いたかったことというのは、この世のあらゆるものは鉱物、植物、動物など、一見、様々なかたちをとっているものの、しかしその本質は皆同じものであり、様々な変転を繰り返す過程で一時的にそれぞれの様態をとっているに過ぎない。だから「心の眼」を持つ人には、荒涼とした月面の風景も咲き誇る花畑も本質的に同一の現象世界の産物であり、大きくみれば同じことである、というのであった。
確かに私も、最初に月に降り立った人(とあるインド人)がいたとして、そこで問題となるのは、月が我々の世界に対して、決して異世界≠ナはなかった、という事実であると思う。そこに存在するのが鉱物であれ植物であれ、それが問題なのではない。
言い換えれば、月もやはりその成り立ちにおいて我々の世界≠ナあり、黄色い花が咲いていた≠ニはそういう意味なのではないか。
ところで、デジタルの世界とは、物理現象の数値化によって自然界を出来るだけ正確にシミュレートしようという、一種の宇宙のモデル≠セけれども、これは視覚的にはその元素の単位となるのはピクセルである。
思えば、私がコンピュータを使い始めた当初、最も衝撃を受けたのは、この〈ピクセル〉という概念であった。
あらゆる視覚的要素としての図像(写真であれペインティングであれドローイングであれ記号であれ)、意味的には一見、別カテゴリーに思われる様々な要素を、ピクセルという素子に分解することで、まったく同一次元上に扱えるということ。この時、私はあのチベット僧の話を思い出したのだった。
果たしてどんなビジュアルであれ、それがこと画像(図像)でさえあれば、その成り立ちが〈ピクセル〉であることにかけて、そこには黄色い花が咲き乱れている≠フであった。
それはつまり、物質と非物質、過去と現在、聖と俗、悲劇と喜劇、そうした一見、対立概念に見えるものさえ〈ピクセル〉という原理に集約され得ることを意味した。
カオスが一見、混迷を指すものに見えて、実は厳格な秩序であるのは、その〈現象〉としてではなく〈原理〉において、あらゆるものが収束され得る宇宙が存在するからなのであった。

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