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坂口安吾はあらかじめ小説の結末を決めず、自らがその虚構世界を冒険し、また創造主として格闘しながら、創作の意義を模索したそうだ。
僕の好きなアウトサイダー・アートの作家達には ―当然ながら― 合理的な目的意識も計画的な表現スタイルもなかった。

僕の場合い、自己表現としての創作、言ってみれば〈ファイン・アート〉を想う時、常にある種の戒めのように感じている事柄がある。
それというのは、創作行為の基点となる発想が、決して行為の見取り図としての〈アイデア〉のようなものであってはならないということだ。
勿論、〈アイデア〉とはあらかじめ計画された思索を自ら誘導的にそつなく具現化するための手筈だけれども、僕にとってこの〈意図の具現化〉ばかりを目的とするような〈コンセプチュアル〉という生き様は、どうも息苦しい。
逆に言えば〈コンセプト〉とはそもそも合理的に意図し、計画できなければ成り立たないわけで、この解かり易さ、詰まるところ、共通認識至上の意味の世界は、無論、消費の基本でもあるし、決して全否定などできる筈もない。が、しかし、こうした万事が社会性という視点にばかり根ざしたアイデアマン的スタンスやコンセプチュアルというアプローチからはいかにも〈個〉としての開放感が削ぎ落とされてゆくように感じないだろうか?
だから、僕にとって自己表現するということの第一義は、この〈アイデア〉という息苦しい予定調和の代わりに、何より〈欲望〉という本能の開放を採用したいのである。
それも願わくば全方位的開放。
元来、芸術というものの機能が、生命力の伴うサプライズである、という点に要衝を置くならば、表現作品とは何よりもまず、創り手にとって最も神秘的であり、ミステリアスなサプライズでなければならない筈だ。
無論、より純度の高い〈欲望〉の結晶を手に入れようとすれば、深い闇の奥に眠る本能の領域に分け入らなければならない。
もしも我々が、無意識と記憶に潜む根源的な錯乱と陶酔のビジョン、つまり覚醒したまま垣間見る束の間の〈夢〉の光景こそ一幅のアート足り得たいと希求するならば、そこへ至る道筋は、決して合理的に組み立てられた見通しのよいものであるわけもないのだ。
また、真の自己表現とは文字通り〈自己〉の表現であるから、本来、他者との共感を模索するようなこととは正反対に、最大公約数ではどうにも括れない部分にこそ意味や価値があるわけで、仮にそうした〈個性〉にさえ一定の共感が得られたにしても、それはあくまで結果であって、プロセスそのものは純粋に個的な感性の発掘が主眼となるのである。
そもそも僕はこの世の謎解きをしてみせたかのような表現は好みではない。
決して回答などないこの世界に意味付けし、あたかも答えに見えるものを提示して合理主義を貫徹させたかにみせる手法には饒舌の醜さと胡散臭さが付きまとう。
結局、僕の考える表現、あるいは表現者の真価とは、決して解けない謎、願わくば永久に解けない謎を一体幾つ提示できたか、ということに尽きると思うのだ。

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