Longtail`s Cafe Fine Graphics

僕は今でもニュー・ペインティングの頃のアートが大好きだ。デピッド・サーレにしろ、フランチェスコ・クレメンテにしろ、ジュリアン・シュナーベルにしろ、キーファーにしろ、パスキアにしろ、ロンゴにしろ、ヘリングにしろ、後に稀代のシャーマン(これが当時流の言い方だ)ジェフ・クゥーンズの示した啓示に導かれるように世界が一様にシミュレーションライクな(進化ではなく)変容を遂げるまで、僕らはあの胎動する70年代に育まれ、不毛の80年代に精製された、伸びやかな狂気と喧噪の表現世界に擁かれていた。僕は今だに大竹伸朗の仕事や、80年、画家宣言して以降の横尾忠則を越える「表現にまつわる何か」を知らない。それは単に個々の作品における質の議論などといったものではない(そんなことは勤勉な美大生かマチエール・フェチの学芸員にでもまかせておこう!)。もっと遥かに作家の視点に立った、表現者が表現者として在り得る事の、ひいては積極的に世界とコミットしようとする者の絶対0度を鮮やかに示しているからである。「人生」という当たり前の語を一切のてらいなく、政治性やコンセプチュアルの罠をもかいくぐり、ただ現実の表皮に記述しつづけようとすること、そのことを思う時、僕はいつも個別の歴史としてのイコン、地上最小単位の伝説、つまり「日記」、ピーター・ビアードの『DIARY』を想う。(1999年頃の雑記)

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