ずっと昔から、あらゆる表現をめぐる命題として確かに存在はしたけれど、それがここ三、四十年、かつてこれ程自覚的に運用されたことも無いだろうと思われる事柄がある。 Grooveである。
そう、〈グルーヴ感〉の話だ。ここで言うGrooveとは勿論、『1.( レコード、敷居などの表面に刻んだ )細長い溝 2.決まりきった道;常軌;( 行動、考え方の )慣習、慣例』などではなく、俗語の「Groovy」(かっこいい;イカス)の方に端を発する語なのだろうけれど、何れにせよ〈グルーヴ感〉とは元々、70年代のハードロックを中心とする音楽シーンの中で使われ始めた言葉だと思う。そう、『電気グルーヴ』の「Groove」だ。
もっとも、〈グルーヴ感〉の意味を端的に言葉で言い表すことは非常に難しく、決して理知ではカバーし切れない、プリミティブな「衝動」に近いものという、そのことこそ本来「Groove」の真価なのだろうけれど、敢えて独断的にも定義してしまうなら、〈グルーヴ感〉とは、アフリカの民族舞踊のように、あらゆる理性を無効にし、直接魂に響く一種のトランス・ウエーブのことで、絶対条件として「スピード」と「ビート」を要する。
この〈グルーヴ感〉が音楽に限らず良くも悪くも表現手法の第一義を成すようになったと思われる最も端的な例は90年代以降の映画産業、ことにハリウッド映画の編集技法の中に見られる。
押井守はかつて「できればワンシーンに一回、サプライズが必要だ」と発言していたけれど、今や映画の中では、シナリオや現場の緻密な演出プラン以上に派手な構図や目まぐるしく切り替わるカット・ワーク(まるで音楽のリズム・パターンのようだ)の陶酔感こそ求められるようになった。
あれは確か93年頃だったか、坂本龍一が当時の音楽業界において極端にリズム志向になったことを受けて「メロディーは死んだ」と発言していたことと呼応するかのようだ。
まあ、映画や音楽が産業レベルでGrooveという刺激を希求する真の目的は「集中力が10分持たない」と言われる若い客層を椅子に釘付けにすることであり、すべからく飽きさせないための方策である点、幾らかチープであり、安易にも映るが、しかしこうしたコマーシャリズムの算盤勘定的側面を差し引いたとしても、実は僕は当世においてこの「グルーブ感」に対する希求というか要請はとても暗示的なものがあると思っている。
ここから私的な話になるが、僕が何かつくりたいと思う時、絶対獲得したいもの、外したくないと思っている価値の筆頭が、実は〈グルーヴ感〉である。逆に言えば〈グルーヴ感〉の有りや無しやが一つの尺度にさえなっている気がする。
ではなぜ僕の場合、Groovyであることがそれ程必要要件なのか?
それは例えば、僕自身の、この〈世界〉に対する解釈、つまり、この世の本質が、何か整理され、理路整然としたものとは捉えたくないという願望に由来していると思う。
僕は何時も、この世界は混沌でありカオスである。また、根源的な生命力を失速させないためにも、少なくとも、自らが抱くこの〈内的世界〉だけはいつまでもカオスであり続けるべきだと感じている。
つまり、ひとたび、カオスという名の混沌をサバイバルし、事象と情報の奔流を泳ぎ切ろうと画策する人ならば、否応なく〈スピード〉と〈ビート〉は必須のツールとなり、その結果、精製される〈Groove〉という名の陶酔だけが純粋に〈理性〉を介さぬ生命力の肯定に繋がるからだ。
僕の場合い、何かつくりたいと思う時、少なくとも自分の人生を余すところなく反映したものでなければ意味が無いと思っている。そして尚且つその人生が曲がりなりにもGroovyでありたいと切実に願っている。