Longtail`s Cafe BACK NUMBERS

ロングテールズFILE;vol.15

男の絆 〜 血の哲学
ギャング映画の頂点『GoodFellas』カム・アゲイン!

そう言えば、友情なんて言葉が語られなくなって久しいなぁ。

友情、特に男の友情ってのは、お互いの気持ちを尊重し合うとか、気配りなんてものとは訳が違う。いや、断じて違う!
じゃあ何かと言うと、一番典型的なのは、例えば、一緒にヤバい橋を渡った、という絆に由来するものだ。

勿論、ヤバい橋≠ニいっても様々だけれど、要するに、怯むことなく、共に修羅場をくぐり抜けた者達だけが共有できる、何か言葉にし難い信頼感のことなんだろうな。

究極を言えば、かつて出征したお祖父ちゃん達が、戦友を語る時のあのリスペクト具合い。
それはもう途端に目の色が、男の眼光に転じる程である。
映画『バンド・オブ・ブラザース』のイージー・カンパニーみたいなもんだ。あるいは、2010ワールド・カップの、あの日本代表チームが静かに組んだ円陣。

そもそも、ああいうものは、極端に個人尊重型の、自己主張ばかりのコミュニティからは決して生まれ得ない感覚である(それは僕も手前味噌ながら過去に痛感したことがある)。

『すべての男は消耗品である』じゃないけれど、大体、男ってのは弾≠フように込められてナンボなんだろうな、元々。だからこそ、スピードを失ったら身も蓋もないわけだ、少し話しは変わるけど…。



おれたちはお互いをグッドフェローズ≠ニ呼んだ

こいつはいいやつだ、仲間だ≠ニいう意味だ

おれたちはグッドフェローズ、ワイズガイなのだ



ところで、男達の絆≠描く映画のジャンルはといえば、手っ取り早いのは、何といってもギャング映画である。

それもギャングものといえば、とりあえずアメリカ産。

中でもその最高峰と賞される作品ならば、やはりあのお馴染みの何本かを挙げなければならないだろう。

勿論、まずはコッポラの『ゴッドファーザー』シリーズ。それに、セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』。更にブライアン・デ・パルマの『スカーフェイス』。また、スコセッシの『グッドフェローズ』。これに加えて、タランティーノの『パルプ・フィクション』と、この辺りがおおよそ定番といってはばからざる傑出作なのであろう。

しかし、これらの作品をして、キング・オブ・キングスを決めろと言われると、少なからず断腸の思いがよぎることとなり、また、万人が万人ともこれという訳にもいかないわけだ。

結局、何れ捨て難い高峰であることに間違いないわけだが、しかし、あえてそれでも、というならば、僕の場合い、まずは『スカーフェイス』が容易く脱落である。
理由は明確だ。音楽の使い方がよろしくない。
このことは他の作品がまた揃いも揃って音感に優れまくっていることから、殆んど致命的である。
つまりそれは、この映画がもうひとつ強烈に胸に刻まれるシーンを持たないことと無関係ではない。
この辺が概してデ・パルマという監督の限界で、他の巨匠達に比べると所詮、散文的というか筋立て本意で、個々の場面の詩情がいまいち深まりきらないのである。

さて、これ以外の作品に関しては、例え、お遊びであっても、その優劣を述べることは誠に以って腸がよじれそうな心持ちだけれども、う〜む、致し方なし、次は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』でも外してみるか。
理由は、後半の老境に入った主人公達をめぐる、謎解きサスペンス風の展開。大体、僕は謎解き≠熈サスペンス≠焉A共にまるで興味を持てない方なのである、生憎と…。


さてさて、こうなると『ゴッドファーザー』、『グッドフェローズ』、『パルプ・フィクション』の三つ巴、仁義なき戦い≠ニなるわけだが、当然、ギャングものというのならこのジャンルの代名詞、その後の手法の総本山とも言える『ゴッドファーザー』こそマスターピースであると断じる向きもおありかとは思う(あるだろうな、そりゃあ)。しかしここではあえて、これを外してみたいと思う!僕的には。

ていうのはですな、つまり『ゴッドファーザー』が対象となるテーマに対して、圧倒的な形式美、つまり、極北とも呼べる映画表現でもって格調高く、普遍的人間性の問題提起を目指しているのに対し、『グッドフェローズ』や『パルプ・フィクション』というのは、こうした道徳的テーマ性の問題よりもむしろ、実際のギャングスター達の現実を、あるが儘に生々しく垣間見た気にさせる≠ニいうところに要点があると思うからである。
要するに「ギャング映画」の本質的機能を、ギャングとは何か?≠ニいう基本的な問いに置いた場合い、『ゴッドファーザー』はイタリア移民の歴史を辿って合理的に説明するスタンスを取るけれど、以下二本は、ただ、その匂い、風合いを以って強烈にギャングというものの本質を理解させてしまうのだ。
やはりこの点が僕にはどうにも魅惑なのである。


やれやれ(^_^;)、とうとう『グッドフェローズ』と『パルプ・フィクション』の一騎打ちになっちまったか…。

『グッド…』と『パルプ…』の違いはもう明確である。『グッド…』が典型的な、いわゆる実録≠烽フなのに対し、『パルプ…』は、別に実際のギャング社会を忠実に描いているというわけではない。変にリアルにチンピラどもの荒んだ心象風景を感じさせているだけだ。
と、いうより、『パルプ…』に登場するギャングスター達のデテールとは、実際、相当に荒唐無稽なものだと思う。しかし、実はここにタランティーノの天才的超絶手腕があるわけで、つまり、あたかも意図して恣意的に設定されたかに見えるはちゃめちゃさの中に、やがてぞくっとさせるアメリカ社会のリアリティーが浮き彫りにされる。
本来、ギャングともつかないギャング達をどうし様もなくホンマもん≠ノ見せてしまうあの感性こそ、この映画の真の挑発であり、真骨頂と言えるのではないか?

まあ、そうした意味で行くと、逆に、全く以ってギャング映画の中のギャング映画でありながら、また、等身大のアメリカ現代史を、これ以上無いくらい忠実無比に見た気にさせる″品として、ここではやっぱり『グッドフェローズ』こそ暗黒街映画のキング・オブ・キングスとさせてもらおう。誠に勝手ながら。



さて、それにしても『グッドフェローズ』である。

後にも先にも、これ程までにカッコ良く、恐ろしく、切なく、なおかつキュートな傑作が他にあるだろうか?

俺が死んだら棺桶に入れてくれ、っていう映画は確かに幾つもあるけれど、その一本は間違いなくこれだ…な!

監督は勿論、現存する世界最高峰の巨匠、マーティン・スコセッシ。
スコセッシの監督作っていうともう名だたる傑作、名作の山、山、山だけれど、僕的にはやっぱりこの『グッドフェローズ』と『タクシー・ドライバー』がワンツー・フィニッシュかな〜。
もっとも僕の中の位置付けとして『グッドフェローズ』ちゅうのは『ミーン・ストリート』や『レイジング・ブル』のライン、つまり初期から中期に至るスコセッシ・ファミリーお得意の群像劇、これの完成型と捉えているんスよ(実はフェローズの後にテーマ、キャスト共に、ほぼ相似形を成す『カジノ』なんてのもあったけどね)。

しかし『グッドフェローズ』って作品はとにかく完成されている。それも、前にも述べたように、かつて『ゴッドファーザー』が打ち立てたあの強固なマフィア映画の形式、まあ、そういうものにも決して収束されることなく、それはそれはオリジナルで超高純度なスコセッシ・ワールドがきれいに完全燃焼している感じだ。

優しさと凶暴さ、非情さとやるせなさ、こうした清濁あい間見える感情を、終わりの一滴まで常に紙一重に行き交う感覚。それは勿論『ゴッドファーザー』においても最大の魅力という意味で共通だけれど、ただし『グッドフェローズ』には更に強烈な快楽≠チてものがある。

狩猟者としての凶暴な夢、スクリーンにのみ投影され得る暗黒の純情が、余りに緻密に構築されたデテールの上で暴発する時、すべからく観客は、欲望というものの恐怖に打ち震えることになる。
そして、酷薄な戒めの連鎖が…。



殺し屋は親しげにほほえみながら現れる

最も助けが必要な時、力になってくれるべき者が冷酷に忍び寄る

ジミーとは客の多い店で会った

予定より15分早く着くと、彼はもう来ていた



僕は単純に、良い映画とは良いシーンが幾つあるかに懸かっている、と考える方だが、この映画ほど珠玉の瞬間≠ノ彩られた作品も無いもんだ!
それを語るにはまず、何といっても屋内移動シーンの妙技。クラブ・バンブーラウンジ内をなめながら空港強奪メンバーを紹介してゆくカットや、ヘンリーとカレンが行列に並ぶことなく$~房を巡ってショウ・ステージの最前列に通される移動ワンカットの小気味良いエレガンスはどうだ!
また、ジミーとトミーがあうんの呼吸でバッツを袋叩きにする問題のシーン。実にこれだけでグッドフェローズ≠ニは何か?という事の本質を語り尽くしているではないか?それもそのはず。(僕の認識によれば)本物の映画とは必ずどこかに、ワンショットだけで作品全てを語ってしまう瞬間があるものなのだ。
更にまた、瀕死のバッツを車のトランクに乗せたまま、トミーの母親に夜食を振舞われるシーン。その伏線の精緻といい、ルフトハンザ強奪の分け前を出し渋ったジミーの手で築かれてゆく葬送シーン≠フ流麗さといい、はたまた、ヘンリーが遂にパクられるまでを見事なカットワークとグルーブで一気に見せる後半のたたみかけ方、などなど…、何れどこをとってもこの映画、『グッドフェローズ』とは、映画魂にガツンと来る正真正銘、傑出した名シーンの宝庫なのであった。



ヘンリー・ヒルは初めての手入れで大切なこと≠学んだけれど、かつて僕も『グッドフェローズ』を観て多くを学んだと思う。

そう言えば、はぐれ者にとっての本当の誠実さ(My Way!)とは何か?という、この問いとは、かつて『長距離走者の孤独』(アラン・シリトー著)で投げかけられた、あのパンク・スピリット、そのことである。


映画のラスト・カット、肉体を失ったトミーが、アウトサイダーとしての倫理≠失ったヘンリーの胸にぶち込んだ弾丸、それは、男達の絆と生き様をめぐる、血の哲学なのであった。

大きな作品、小さな作品…。極私的であることも偏愛家としての要素!!『そこから宇宙が見えるかい?』
「THE WORLD BARBARIANS' POP 〜なめらかな標的〜」
art「THE WORLD BARBARIANS' POP 〜なめらかな標的〜」
さらに前のコンテンツを読む 新しいコンテンツへ