例えば、戦艦大和か何んかのプラモデルであっても、それをもう作ることでしか得られない、その対象物(大和)に対する深い深い理解のレベルというものが存在するのであろう。
これは実感≠るいは体感≠ニ言ってもいい。
実際の「戦艦大和」を、現存する周辺情報を元に「解釈」したかにみえることは「知識」である。
この「知識」とまったく別のレベルの理解が「実感」なのであって、無論、知識が、あくまで観念上に帰属するのに対し、「実感」とは「体験」に基づいている。
「体験」とは複雑極まる三次元世界(情報)が五感を伝って脳に与える緻密な作用、「認識」のことである。
つまり、少々、大きく言えば、「戦艦大和」を一個つくりあげた体験を持つ人は、つくりあげなかった人に比べて、単に二次元的視覚と観念操作(知識)によって構築された(かにみえる)「解釈」にとどまらず、遥かに複雑な五感から割り出された、言語化し難い、何か「構造の本質」に至るものなのではないだろうか?
さてさて、いやはや(はらほれ、ほにゃらら、ちょめちょめ)………。
戦闘機を紙でつくったわけである。
つくった≠ニいっても、ペーパーモデル・キットを一から開発しちゃったわけである(エヘン)。
古い古い日本の戦闘機である。
何故つくったかと言うと、単につくりたかったからである。
前々から戦闘機を紙でつくる人を見ては、いいな〜、スゲーな〜、難しいんだろうな〜、などと思ってきたので、いっぺん、やらかしてやろうと画策してみたわけである。
しかしまた何で「震電」を?と尋ねられたら、僕としては逆に、何で震電つくらないの?と尋ね返したいところである。
と、いうかまあ本当のところは、実際、こういうものを今後どれだけ作ったりする機会を得るか皆目わからないので、だとするならば、そのきわめて貴重な機会にいったい何をつくるべきか?零戦にするか隼にするか雷電にするか、はたまたP-51としゃれてみるのか?
というような考えを巡らした結果、それもなんだかなぁ〜、という思いに至ったからである。
そのあたりだと、なんちゅうかこう、パンチがない。
どだい、先人があまりに良いものをつくり過ぎている。
それに、同じ必死こいてつくるなら、モチーフ自体に何か異質なものが欲しい。
かつ、それそのものに奇妙な出自と謎めいた物語りのようなものがあればなお良い。
イエス・アイ・Do!てなわけで「震電」だったわけである(間違っていたらゴメンなさい!)。
まったくもって震電とは摩訶不思議な魅力に満ちた存在ではないか?
何せ震電の実地運用を考える時、すべからく「シミュレーション戦記」になってしまう点が凄い!
しかもその風貌はご存知のように、第二次大戦機にあるまじき程、レトロ・フューチャーにしてクールである。
実機でありながら同時にセンス・オブ・ワンダー!!
もち、ジェット化構想が存在したことも人気の秘密だ。
おもしれえ!パラレル・ファイターSHINDEN スゲェ!
しかもその攻撃目標となったものが、何より日本人にとって忘れても忘れ難きあのトラウマ的恐怖の大王、B-チョメチョメだったなんってっっっ!
何という筋書き!何という図式!フラグが立ちまくってるとはこのことではないか???????
ま、以上のようなもっとも(?)な理由においてこの度、「拾八試局地戦闘機 震電入りますっ」とあいなったわけですな。投下しといたわけやね。
しっかしまぁ、何と言おうか、言うまいか、いやはや、今度の制作はちょっと、ちょ〜〜っとばかり大変でしたよ。ホント。
すなわち僕的にはガチでやったつもりであります。励んだわけです(^-^)/。
飛行機もののペーパー・モデルというものも、これはまた非常に考えさせられるもんですな。特に、ネットで数多くこうしたものをつくられておられる御仁におかれましては、只々敬服するのみ(ザッツ・グレート・マスター!!)。というか、以前にも増して、こうしたものの技ものを実際に手に取ってみたい気分になりました。
だって、飛行機の形ってむつかしいんだもん。
なんせ、とかく歪みを生じやすい紙という素材に対し、飛行機の繊細な形状が折り合いにくいこと。つまり、誤差を最少に抑える構造と作り方の工夫が中々に要求されるモチーフなんですな。
それに今回の場合い、何と言っても可動ギミックの搭載(ランディング・ギアの格納)によって、それこそ大幅に制作が困難なものになりやがったわけです(とほほ)。
これは具体的にいえば、特に主翼に収まる後方のギアのギミック構造のアイデア出しがおいそれといかなかったんス(ふう)。
何故ならここは何とかしてあの飛行機特有の車輪格納途中の状態も再現してみたかった、しかも前輪とは別のやり方で紙特有の弾性を活かした独特な方式を考えたかったことにより、結果的に非常に熟慮を要した箇所になりました。
結局これは三つの仕掛け(主脚根元の微妙な形状、ジョイントにロックする機構、機体と脚を繋ぐ接合パーツ)を組み合わせることにてどうにか実現させることができました(やれやれ)(^_^;)。
ところで、僕がペーパーモデルなんかをつくる場合い、どうしたって最重要と考えているのは、やはりテクスチャなんですよね。
何故ならデテールにおいて、プラモデルと違ったミクロな追い詰め方ができるのは、なんつっても3DモデルとしてPhotoshopで直描きできるからじゃないですか。
形状のみを追い詰めるのなら、所詮、どうあがいてもプラモデルには及ばない(本家カード・モデルじゃあるまいし(⌒-⌒; ))。しかし、塗装ということになると、プラモはプラモで、人間国宝並のテクが無い以上、どうもこの、スケール感満載のオモチャっぽさってのが出てきちまう。うむ。ラッカーじゃな〜。
つまりそこにこそ、実は新しい時代のペーパークラフトの真価ちゅうものがあると思うわけです。
いわば僕はペパクラを、一種の「だまし絵」ならぬ「だまし精密模型」と捉えることに面白味を感じているのです(あるいは立体イラストと呼ぶこともできようが、これは何だかワクワクしないし、古臭いから、あんま呼びたくない)。
まあ、そんなわけだから、今回の「震電」に関しても、どんな描き込みポリシーを持ってどの辺りまで攻めるかは初めに重要な問題であった。
つまり、僕の場合い「震電」をどういうものと捉えるか?それが問題であった。
そうしてあらためて自分の問題≠ニして、世間様の「震電」表現≠ネるものを見渡してみた時、案外、答えは明確なように思われた。
つまり、「震電」というもののプロフィールの面白さ、外観の奇たんさ、またこれに加えて、歴史的なタイミングの妙によってたまたま実戦の血を吸っていない気安さなどから、概して一般的な「震電」の捉え方は、ともすれば垢抜けた、奇抜な、進歩的な、浮世離れした、先進的な、スマートな、時代錯誤的にカッコいい代物になっている気がした。
要するに、あの太平洋戦争末期の辛酸で絶望的な空気、悲壮感のような現実がいまいち伝わってこないのである。
もちろん、それこそが、実際には間に合わなかった試作機「震電」の最大の強みでもあろう。
実際には局地≠フ空を飛ばなかった戦闘機だからこそ、幾ばくの後ろめたさも無く、想像の翼を広げてパラレルワールドに遊ぶこともできるというものだ。
ただし、と僕は思う。とかくこうした「先進性」のようなイメージが大勢を占める「震電」ならば、僕はといえば、もっと泥臭く、生々しく、時代の匂いを全身に纏った生身の「震電」を見てみたい。イマジネーションの魅惑の雲から、突如荒々しく滑空してゆく、凶暴な兵器の顔をした「震電」を見てみたい、そう思ったわけである。
あの『プライベート・ライアン』に登場するティーガー戦車が、実際には、子供の頃つくったどんなプラモデルのそれとも、似ても似つかない印象を持っていたように。
そう思ったことでロングテールズ・カフェ版「拾八試局地戦闘機 震電」の方針は固まった。
外装色はわりと使われる濃いモス・グリーンのような色ではカッコいいけど、何だか陸軍機みたいだからやめて、あえて他の機種に紛れてしまいそうな大戦末期の典型的海軍機色、つまり、変哲もない零式五十四型みたいなものでヨ〜シ!
しかも涙ぐましくも粗悪な生産体制で、中学女子まで動員してつくらせたペコペコの機体が伝わらなければウソになる。
さらにさらに、ひとたび実戦配備されればあの切羽詰まった時代、充分な整備もなされぬまま、出撃に継ぐ出撃!だって、整備もそこそこになるわけだよ、どうせ30ミリ機銃で及ばなければ、また例によって得意の体当たり攻撃すら辞さない訳だから、と、そんなことまで連想させられれば以ってヨ〜ソロ〜(良きに候)なのであった。
ついでに言えば、こうした方針は告知のパッケージングにもいかんなく発揮されることとなった。桜吹雪に「帝都防衛」というやや不穏(~_~;)なコピーである。
これはまた何でこんなんなったかというと、はっきり言って、兵器玩具系の企業さんが決してやらないことだから、あえてやってみたわけである。
文化考証としての兵器と軍国思想を私たちは分けて考えていますよ〜、というようなタブーに対する牽制の仕方、早い話が、タミヤが決してパッケージにハーケンクロイツを描かないような方便の仕方を、折角、こちとら個人でやってるんだからこれ幸いとブッスリ突いてみたまでのことである。
だってですよ、真実を言えば兵器ってのはどこをどう考えたって軍国思想の形をしているもんです。地獄に最も近い姿をしているのが兵器であることは疑う余地もない。
兵器を見て戦争は見ない。戦争は見て軍国思想は感じないというのは完全な欺瞞だと僕は思っています。
どだい、これはあり得ない話しです。
ただ、実際には暴力による政治解決やいたずらな闘争を金輪際支持していなくとも、象徴としての兵器やバイオレンスに惹きつけられる人達がいます(僕もその一人だけれど)。
それはもちろん、スターウォーズやガンダムであっても、それが背負った暴力の象徴ということにおいて、何ら変わることはありません。
そういえば、かつて三島由紀夫が自決した時の「新潮」に、野坂昭如が、どんなにふやけたアナーキストを気取っていても、何故か軍艦白波蹴たてて進む姿に惚れ惚れするし、実は勇ましいことに憧れる気持ちが何時まで経っても抜け切らないという意味のことを述懐していましたっけ。
しかも何故そうなのかがわからない、と…。
僕にもわかりません。
その答えはまだまだわからないけれど、要は、人間とは実にアンビバレント(二律背反)な価値を常態的に行き交うことの方がむしろその本性であって、ある時はその振り幅が大きい程、ある種の快楽を得るもののようです。
表現∴ネ外の問題としては、実は僕は軍国思想の中身そのものに殆んど興味はありません。
興味があるのは正にこの、人間のふたつに引き裂かれた欲望の方なのです。
願わくば皆様におかれましては、この度の当サイト謹製「ペーパーモデル 拾八試局地戦闘機 震電」をぜひ手に取って頂き、その勇ましさ、凛々しさと同時にいみじくもフラッシュ・バックする、あの陰惨な暗黒の歴史、その地獄絵に思いを馳せつつ、その引き裂かれた不条理な欲望の間に間を存分に遊ばれることを願っております。
「解釈」ではなく「実感」のために…。
追伸. 次回は、状況さえ許せば、無料版で、あの映画のあれなんかつくっちゃおうなんて画策中であります。よろしければ気長にお待ち下さい!かしこ