Longtail`s Cafe BACK NUMBERS

ロングテールズFILE;vol.3

キリンジMV 『十四時過ぎのカゲロウ』

もう、10年以上も前のことだ。
僕はその日暮しのような生活をしていて、主にアルバイトで生計を立てていた。
この頃、とにかくいろんな現場≠体験したものだが、それらはご多分に漏れず、それなりに社会のお役に立ってはいるものの、大きな声で言うと、誰かの自尊心を執拗に満たしてやるだけの、そんな仕事であった。
それは例えばお中元の西瓜を割って怒られたり、大地主の私有地を芝刈りしたり、昔のでかいCRTを荷台に積み込んだり、最悪の場合い、街灯さえ無い深夜の峠道に一晩中貼り付き、凍死するかと思ったり、と、まぁ、そんな感じのものだ。
当時、僕の仕事の供給源は、昨今、問題になっている派遣アルバイト、それも悪の権現のように言われ、既に消滅した、(草創期の)あの会社からであった。
ところで、そんな暮らしはしていても、僕には、例えば、アキバに殴り込もうとか、極端に言えばそういう類いの鬱屈した心情は特に無かった。
何故かというと、自分の中には実は密かな大義≠フようなものがあって、それはまあ、有り体に言えばこうだ。
肩書き≠竍虚栄心≠竍先入観≠竍不安≠フような諸々の人生の不遜なものをもう一度、置き去らした上で、出来るだけ無垢で無防備な自分が、どの程度、世の中に通用するのか、それを確かめてみたい。
更に、そこに、それまでの自分の位相を超えた価値観のようなものを見出すことができるか?
いやいや、そもそも私が信じていた私≠ニいう名の確固とした城壁≠ネど本当に存在したのか?
つまりそういう疑問を解き明かすことであった。
勿論、これは僕にしてみれば明確な冒険であった。
僕はこの時期、ただじっと自分のことだけを観察し続け、その結果、例えば、他人に対して何かしらの感情をたぎらせるような瑣末なことをすっかり忘れているつもりであった。

さて、そんなある日の現場帰り、運搬用トラックの助手席に僕は乗せられていた。
「じゃあ、バイトくん、バイパスの脇でよかったんだよね.この先で降ろすからさ、お疲れ!」
どう見ても年下のこいつはタメ口≠ナ僕をバイトくん≠ニ呼ぶ。
さすがに僕はこんな時の自分を誇らしくは思えなかった。カッコ悪いにも程がある。
たったこれだけのことで、あのもっともらしい大義≠ヘ早くも崩壊しそうになるのであった。
そうして僕はどうしたかというと、「お疲れ様でした.またよろしくお願いします!」と丁寧に言って、トラックを降りたのだった。
僕はバイパスから市道へ降りる階段の方へ向かって歩き出した。

例えばこの時の光景…。
乾いて無機的でどんなドラマチックな激情からも無縁な哀愁。決して顧みられることのない日常の陰影。

そんな白々とした憂鬱な高速道路の風景が一瞬インサートされるところから始まるプロモーション・ビデオがある。
キリンジの『十四時過ぎのカゲロウ』である。
これは一見、非常に低予算の、どちらかというととてもゆるいPVに見える。
キリンジ(堀込高樹、堀込泰行)の二人が入れ替わり演奏する映像のバックで、誰もが記憶の断片に留めているような徹底的にありふれた日常の情景、例えば真昼の公園、小田急線脇の路地、見飽きた街角の信用金庫などの(おそらく)16ミリフイルム映像がさくさくカットバックしながらクロマキー合成されるというだけの代物である。
一言で言うと、平日の朝4時頃 、寝ぼけまなこでPVを垂れ流ししているテレ東の番組かなんかを見ていて、何となく理由も解らないままぐっ≠ニくる、そんな雰囲気である。
ぐっとくるし、どことなく切なくなるけれど、曲調自体はボサノバ調のアップテンポな曲で、非常にノリがいい。
歌詞を聴き込むと、これはキリンジの歌詞世界の中でも典型的な青春のレクイエム<pターンであることがわかる。
そう、例えば、『アルカディア』のような…。
実は僕はこのPVがもの凄く好きだ。
余りにもシンプルで、こうした低予算ものとしても、実にありふれたものだと思う。
しかし、そういうことではなくて、この作品は僕にはちょっとヤバイ≠フである。
つまり、キリンジの楽曲とあいまって、これは僕の中のある種、パーソナルな記憶の風景を妙に刺激してくる。
ところで、PV(プロモーション・ビデオ)という言い方は本来、表すところが広義過ぎて、どうも意味不明の感じがする。クリエーターの立場からするとMV (ミュージック・ビデオ)と呼んで欲しいのじゃなかろうか?僕はこの辺の事情に明るくないが、一応、念のため、以後、MVと表記することにしよう。
さて、MVというものは表現としてはやはり特異なもので、それは本来、映像が曲を装飾するコマーシャルの形態、と言ってしまえばそれまでだが、しかし、最高のポテンシャルを発揮するMVとは、曲と映像の喚起力がたまたま優れていて、しかも、お互いのイメージが相互を補完し、拡張する役割を持たなければならない。
そういう意味でもMV『十四時過ぎのカゲロウ』は見事な作品だと思う。
もっとも、キリンジのMVにはいずれもシンプルながら、惚れ惚れするものが多く、僕の好みでいくと、『グッデイ・グッバイ』、『アルカディア』、『雨は毛布のように』、『スウィートソウル』、『カメレオンガール』、『Lullaby』などが良い。
また、この他にもソロの『冬来たりなば』(堀込高樹)や『燃え殻』(馬の骨)は素晴らしい。
『十四時過ぎのカゲロウ』をディレクションしたのはCMやMVを多く手掛ける、小島淳二という映像作家で、この人はキリンジ作品では『スウィートソウル』、『カメレオンガール』も手掛けているらしい。
女の子が恋人を空港まで送り届けた帰りの車中を『ストレンジャー・ザン・パラダイス』ばりのドキュメント・タッチで切なく、淡々と見せる『スウィートソウル』。傑出したハイセンスなモーショングラフィックスを駆使し、ポップでカラフルなキリンジ世界を表現した『カメレオンガール』。これらも『十四時…』に負けず劣らず大好きな作品である。
因みに小島淳二が手掛けた他のアーティストで特に僕が好みなのはホフディラン砂原良徳だが、あいにくとこれらのMVを目にしたことはまだ無い。ぜひ、いづれ、どこかで見てみたいものである。
少し話が脱線したが、この辺りで話を本題に戻そう。
『十四時過ぎのカゲロウ』は「水辺の生き物 だから陸では生きてゆけない 気がしている」という、どうやら明日無き水泳青年の心象風景を、キリンジらしい鉄壁のアンサンブルで唄いあげた傑作である。

ひたすらに泳いだ後は
筋肉の翅が生えている
赤い背中に

夕陽の中で考えている
明日の朝に
世界は脱皮するのかと

僕がかつて見たあのバイパスの風景、そんな名もない慟哭と空虚な哀しみ、例えばそんな行き場の無い、青いつぶやきを、キリンジはひたすらカッコ悪く=Aひたすらアイロニカルに、そして何よりもエレガントに活写させる。
このことは他でもなく、『十四時過ぎ…』というタイトルが端的に物語っている。
十四時過ぎ…、つまり、午後2時過ぎである。
これ程リリカルな激情からかけ離れた題名があるだろうか?
つまりそれは、この音楽が、誰もがやり過ごす無名の時=A(あるいは青春≠ニ同義語としての)置き去りにされた感情や、かつて切り捨てられた全ての記憶に対する鎮魂歌〈レクイエム〉であることを表しているのである。
さらに、MVの方では時≠視覚化する道具立てとして、泡立つ水の飛沫が印象的に使われている。
フラメンコを舞う女のシルエットのバックで、誰もが堰き止めることのできない透明な奔流が躍動する。
僕はこの、決して独創的とは言い難い組み合わせの演出を何度見ても美しいと思う。
というのも、僕はきっとあの水のイメージの底流に、例えば三島由紀夫の『豊饒の海』の中で語られる、人間存在の「意識」を超克し、「輪廻」を客体化する仏法思想上の原理、阿頼耶識(あらやしき)を連想しているのかもしれない。
「阿頼耶識」とは滝の奔流のように流れ続けながら、生き物の輪廻の連鎖を俯瞰する、意識世界を超えた摂理だという。

「その識は滝のように絶えることなく白い飛沫を散らして流れている。つねに滝は目前に見えるが、一瞬一瞬の水は同じではない。水はたえず相続転起して、流動し、繁吹(しぶき)を上げているのである。」(三島由紀夫 著『暁の寺 〜豊饒の海・第三巻〜』より)

あの物語りの中で、その人智を超えた永劫の奔流は、執拗に若い肉体にのみ寄り添っていた。
その訳は、MV『十四時過ぎのカゲロウ』の、詩と風景が一瞬で見せるイメージに相応する。
つまりこういうことが、映像というものの驚きであり、また、愉悦なのである。

大きな作品、小さな作品…。極私的であることも偏愛家としての要素!!『そこから宇宙が見えるかい?』
「さっき言ったことをもう一度復唱しなさい。今言ったことを永久に封印しなさい。」
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