Longtail`s Cafe 昨日までの言霊

vol,4

おれはすでに汗でシャツの黒くなったガンソープ選出の選手を抜き、柵で囲った雑木林の角をちらと前方に見ることができた。
そこではこのレースに勝つためにおれが抜かなきゃならない唯一の男が、中間点に辿りつこうと全速力で走っていた。やがて
奴の姿は林と藪に隠れて見えなくなった。他の選手も見えない。おれにもクロスカントリー長距離走者の孤独がどんなものかが
わかってきた。おれに関するかぎり、時にどう感じまた他人が何と言って聞かせようが、この孤独感こそ世の中で唯一の誠実さ
であり現実であり、けっして変ることがないという実感とともに。おれのうしろの走者はうんと遅れているに違いない。あまりにも
静かだし、霜のおりた冬の朝五時よりもまだひっそりと、物音も物の動く気配もない。ちょっと信じられないような気がしたが、とも
かくわかっていたのは、なぜ走ってるのかなど考えず、ただせっせせっせと駆けなきゃならないことだった。

アラン・シリトー丸谷才一河野一郎 訳 『長距離走者の孤独』より

「少くとも三度は奴を刺しましたが、血は一滴も出ませんでした」三度目の攻撃を受けた後、サンティアゴ・ナサールは腹の上で腕を組み、身をよじって、仔牛に似た悲鳴を上げながら二人に背を向けようとした。そのとき、左にいたパブロ・ビカリオが、反ったナイフで背中を刺した。背中が刺されたのはその一回だけだった。すると血が勢いよく噴き出し、パブロ・ビカリオのワイシャツは真っ赤になった。「あいつと同じ臭いだった」と彼はわたしに語っている。

G・ガルシア=マルケス野谷文昭 訳 『予告された殺人の記録』より

「兄さんは何がしたくてたまらないのだろうね? われわれ人間はみんな何をしたくてたまらないんだろうね? われわれは何を望んでるのだろうね?」彼女には分らなかった。彼女はあくびをした。眠そうだった。もうたくさんなのだ。誰にも分らないのだ。誰も永久に分らないのだろう。それですっかり終った。彼女は十八で、とても美しかった。それなのに彼女は失われていた。

ジャック・ケルアック/福田実 訳  『路上』より

おれは《右》だ! おれは他人どもに見つめられながらどぎまぎもせず赤面もしない新しい自分を感じた。いま他人どもは、折りとった青い草の茎のようにじゅくじゅくと自涜で性器を濡らす哀れなおれ、孤独で惨めなおどおどしたセヴンティーンのおれを見ていない。おれを一眼見るやいなや《なにもかも見とおしだぞ》といっておれを脅やかす、あの他人の眼で見ていない。大人どもはいま独立した人格の大人同士が見あうようにおれを見ているのだ。おれはいま自分が堅固な鎧のなかに弱くて卑小な自分をつつみこみ永久に他人どもの眼から遮断したのを感じた。《右》の鎧だ!

大江健三郎 『性的人間』中「セヴンティーン」より

かくれんぼ鬼のままにて老いたれば誰をさがしにくる村祭

ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな

吸ひさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

寺山修司 監督作品 映画 『田園に死す』より

見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが見るだけの人間になるわけにはいかない。
見られた者が見返せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。

安部公房 『箱男』より

「私は編集するのが大好きです。映画の心は編集にあると思ってる。そして、私にとって、若松さんやヘルツォークさんは、詩人の心を持つ監督です。彼らは、紙と鉛筆の替わりにカメラを使っていると感じます」
だから、監督に、その作品についての解説を求めるインタビュアーには、イライラするという。
「本当に、それは馬鹿げている。例えば、ルイス・ブニュエルさんという監督のある対談で、誰かが『作品の中で、熊が歩いた意味は何ですか?』と尋ねました。すると、ルイス・ブニュエルさんは『歩いている熊です』と答えました(笑)。もし、言葉で解説できるのなら、作家になるでしょう。映画の言語は、映画の特殊な言語です。文字の言語では解説できないものです。監督が言葉で解説できなければ、その作品はちゃんと成立していないかのように思う人はバカでしょう。すべて、映画の特殊な言語は私達に伝えるためのユニークな方法です」

ジム・オルークへのインタビュー 『若松孝ニ 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』より

妻をなくして、空景、近景をモノクロームで写しつづけ、そして色景に入った。すごく色が欲しかった、それも原色が。もー私小説をヤメにしたかった。そんな気持の時に『原色の街』の写真化のコトを思い出したのである。まだ現場があり現役がいるとゆーので去年の7月大阪にでかけた。やはり夏でなければいけない、夏の色が原色なのだ。期待したとおり大阪は原色し熟れていた。三泊四日。私の中の色街の女に出会える気がした。

荒木経惟 写真集『原色の街』より

「失敗してもええのや。失敗を恐れていたら何もできない。君には夢はないのか」
私の嫌味たっぷりな言葉に男は黙った。『下衆野郎!』と思いながら私は電話を切った。電話を切ったが私は不安になった。はたして映画は完成するのか。映画の完成を保証してくれるものは何もない。未知の世界に挑戦しようとすれば、危険は避けられないのだ。ものごとは、手に入れたものと引き換えに、それなりの代償を払わなければならない。代償を払わずに欲しいものだけを手に入れることはできないのである。私の人生は失敗続きだったが、それは代償を払わずに欲しいものだけを手に入れようとした結果だった。失敗しようと成功しようと、それは人生のほんの一部にすぎない。

梁石日  『シネマ・シネマ・シネマ』より

衰えることが病であれば、衰えることの根本原因である肉体こそ病だった。肉髄の本質は滅びに在り、肉体が時間の中に置かれていることは、衰亡の証明、滅びの証明に使われていることに他ならなかった。
人はどうして老い衰えてからはじめてそのことを覚るのであろう。肉体の短い真昼に、耳もとをすぎる蜂の唸りのように、そのことをよしほのかながら心に聴いても、なぜ忽ち忘れてしまうのであろう。たとえば、若い健やかな運動選手が、運動のあとのシャワーの爽やかさに恍惚として、自分のかがやく皮膚の上を、霰のようにたばしる水滴を眺めているとき、その生命の汪溢自体が、烈しい苛酷な病であり、琥珀いろの闇の塊りだとなぜ感じないのであろう。

三島由紀夫 『天人五衰 豊饒の海』より

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