Longtail`s Cafe BACK NUMBERS

ロングテールズFILE;vol.31

その男、トラヴィス・ビックル。

ニューヨーク、というと、まず最初に何を連想するだろうか?

僕の場合、ひとつは断然、現代美術だ。

美術についてはちょっと苦手、という人のために一応、言っておくと、今日、美術の世界的中心と言われているのは決してパリではなく、ニューヨークなのだ。

それももう長いこと、そのようなわけである。


ニューヨークというと、僕にもちょっとだけリアルな思い出がある。
もう、二十年も前、約数週間ほど滞在したことがあった。

この時も、何が一番お目当てだったかというと、やっぱり現代美術。
ニューヨーク近代美術館やらメトロポリタン美術館を訪れ、画集など買い込み、ソーホー界隈のギャラリーを見て歩いた。
面白かったのは大体、こういうことで、逆に悔やまれたのは、セントラルパークでうだうだしながら、現代美術の殿堂、ホイットニー美術館をスルーしたことだった(確か、代わりに、ダコタ・アパートを見た気がする)。


たったこれだけの思い出なのに、あの9・11の時は、かつて登った貿易センタービルが倒壊する惨状に、何か言い知れぬ(少々、大袈裟に言えば)身体の一部がもがれる感覚にも似た、強い喪失感を感じたものだ。

今から考えれば、あの時の喪失感″とは、記憶の平穏をもがれることの痛み、だったのかもしれない。

だとするならば、記憶とは、痛みを伴う身体の一部なのか?などと考えなくもない。

さて、このニューヨーク滞在の折、実は、あらかじめ僕の頭の中には、原風景としてのニューヨーク、とも呼べるイメージが確かに存在したと思う。
つまり、現実の街は、昔見た幻の面影を辿る旅でもあった。
(少なくとも、僕にとっては)かつて間違いなく、あの街の印象を決定付けてしまったものがある。
それは、1976年の映画『タクシードライバー』である。


「夜歩き回るクズは
売春婦、街娼、ヤクザ、ホモ、オカマ、麻薬売人
すべて悪だ
奴らを根こそぎ洗い流す雨はいつ降るんだ?」


決して大袈裟でなく、『タクシードライバー』という映画は、かつて一個の街をシンボライズする、ある種の共通言語であったと思う。
『タクシードライバー』みたいな〜、といえば、特定のフィーリングや情景が確実に伝わった時代があった。


ところで、そもそもの話、なぜ僕らは映画を観るのだろうか?

僕の思うにそれは、人間とは、人生の象徴″となり得る何ものかを常に探し求めているからではないか、と思う。

映画とは何がしか、ものの見方や生き方のスタイルを提示するものであり、それらは実際、象徴を積み重ねる″という具体的方法によってのみ、観客に伝えられる。
一つのシーンも一本の映画自体も、すべてがある観念に誘う装置としての暗喩の集合なのである。

また、そういう意味を含めて、あなたにとってどんな作品が最も「映画」なのか?と尋ねられたら、僕は迷わず、『タクシードライバー』こそ映画の中の映画だ!と答えるだろう。


「題名は予言者で麻薬の売人″
事実と作り話が半々の歩く矛盾よ
俺の事か?
ほかにいて?」

例えば、少し話は変わるけれど、僕は映画についても、どちらかというと、いわゆるファンタジーというのはあまり好みではない。
しかし、そうは言っても、『勝手にしやがれ』と『トイ・ストーリー』を比較することのバカらしさくらいはわきまえているつもりだ。
と、いうより、各々のジャンルを、それぞれの達成度で評価したり、それはそれとして愉しめる度量は持っているつもりだ(勿論、『トイ・ストーリー』も『千と千尋の神隠し』も大好きな作品である)。

しかしながら、どちらかというとそうした虚構らしい虚構″にはあまり食指が沸きにくい体質、というだけの話である。

いや、もっと別の言い方をするならば、映画というものはそもそも、例え表現手法がどうであれ、あらゆるものがファンタジーには違いないわけである。
更に言えば、どのようなしかつめらしい文学だって、結局、ファンタジーなのだ。
ただ、そうしたものの中でも、概して僕が好むものとは、大人のためのファンタジー″であることが多いのではあった。

大人のためのファンタジー。それはつまり、『タクシードライバー』が全く最善の典型であるように、可能性としてのもうひとつの人生を、徹底した精度で再現し、提供するものでなければならない。

多くの場合、それは、主人公が観客を引き連れ、惰性と連鎖の人生を降りる″ことによって、人生がある一点に向かって動き出す、という形式である。


「チクショウ 毎日過ぎて行くが終わりはない
俺の人生に必要なのはきっかけだ
自分の殻だけに閉じこもり
一生過ごすのはバカげてる
人並みに生きるべきだ」


「今 俺の人生は1つの方向に向かっている
はっきりと
初めての事だ」


言うまでもなく、こうした自己実現の夢が、いつもファンタジーというものの底流にはつきまとうわけだが、しかし、大人のファンタジー″たる『タクシードライバー』という作品には、ここにもうひとつ、一筋縄ではゆかぬ、人間社会に対する眼差しと、余りに忠実に実世界を照らす、なんとも不気味な手応えが込められていた。

要するにそれは、とても怖くて、危険な物語であった。
そう、この映画の主人公にあまり感情移入することは危険である。

逆に言えば、大抵、口はばったい理想″に対して感情移入させることを信条とする凡百のファンタジーにあって、この世の実相を直視させ、やがて、アンビバレンスな葛藤に誘うこの作品こそ、如何にも大人のファンタジー″そのものであった。



さて、この映画において最も重要な点は、徹底したリアリティと同義語としての、アンチ・ヒロイズムである。

誰でもない″主人公、トラヴィス・ビックル。
劇中、彼の人生の背景が詳しく語られることはない。それはまるで、産まれたての我々自身のようである。

等身大の主人公。
毎日は単純労働の繰り返し。食って、寝て、働いて、少しばかり小金をため込んだところで、こんな生活が死ぬまで続く。

彼は、粗末な一間の自室で、人知れず自尊心だけを飼い慣らしている。

訳もなく眠れない日々が続き、仕事とプライベートの区別なく、渇いた夜をさまよい歩く。

少しは社会に貢献したり、誰かを救って名誉欲を満たしてみたいけれど、それらは儚い独善であって、結局、誰も彼を求めてはいない。

ある時、外の世界に憧れて、女の子を口説いてみたら、教養の無さが仇になり、いよいよ行き場が無くなった。

上司にも相談してみたが、しっくりくる答えなど見つかる訳もなく、いつまでも眠れない日々とテレビだけの毎日に疲れてしまった。

やがて行き場のない怒りが一個の人格のように姿を現し、力″と正義″の意味が曖昧になった…。


誰でもない″主人公、トラヴィス・ビックル。

夢をみることは禁じられたのではない。
夢みるだけの力が無かっただけだ。

そこは恐るべき程に、我々と相似形の世界であった。



そういえば昔、この映画を解説するようなものの中に、戦争の狂気が彼を駆り立てた″みたいなことを書いていたものがあった気がするが、しかしこれは、この物語の文脈から考えて、僕は違うと思う。
トラヴィスが海兵隊帰りだという設定は、当時の一般的な若者像として、あくまで世相を表したものであり、また、もっと重要なことは、戦争という非日常から帰還したところで、結局、何かドラスティックな進化″が行われるわけではないという、身の丈の現実である。

実は戦争さえも一時の陶酔に過ぎず、人間の本質がただ出来事によって変わり得ないことへの苛立ち、そこにこそ、真に問いかけるものがある。

そういう意味でも『タクシードライバー』とは、例えば、『ランボー』のようなヒロイックな物語とは真逆のものと捉えるべきだと僕は思っている。

先に、この映画の主人公に、あまり感情移入することは危険だ、と書いたが、実にこの作品とは、犯罪映画として、表面的な動機や詭弁に隠されがちな深層心理に光を当てた、画期的なものではあったが、しかしその反面、だからこそ、ある種の(鬱屈した)人々に対しては、深い共感と共に、暗い負の示唆を与えかねないものでもあった。

本来、映画の意図としては、「アンチ」として機能すべきことが、過剰に感情移入した観客によって、いつかヒロイズムにすり替えられる。
それはまるでこの映画のラスト、実はいっぱしのサイコ・パス″に過ぎない主人公が、皮肉にもヒーローのレッテルを貼られ、再び社会の闇に消えてゆく場面を見るように…。

トラヴィスを思わせる、暴発した若者による悲劇は、虚構を待つまでもなく、今日なお、枚挙にいとまがない。

すべからく、犯人心理の中では、(ほとんど誰もが)腐った大勢の中で、自分こそ唯一正しいもの、即ち、世直しヒーローなのである。

それは如何なる理不尽な通り魔犯であってもそうだと思う。

もっとも、主人公、トラヴィスの場合、彼はたまたま、何かしら行為を正当化してくれる古典的善行″という物語の形式を必要とした。だから、無差別殺戮を選択しなかっただけであった(逆恨みによる大統領暗殺未遂のエピソードは、その紙一重だった)。

そのことは、あの血と酸鼻にまみれた、あまりにグロテスクな夢の終焉(伝説的に凄まじいクライマックス)がはっきり物語っている。




先日、宮崎駿監督が文化功労者に選ばれた席で、映画は常に、文化を破壊し、損ねる可能性を持っている、と発言されていたが、この言葉は、あるいは『タクシードライバー』のような作品のために転用することも可能かもしれない。

正真正銘大人のファンタジー″とは、時に自ら危険な刄(やいば)たり得るがために、より一層本物″とも言えるからである。

大きな作品、小さな作品…。極私的であることも偏愛家としての要素!!『そこから宇宙が見えるかい?』
素材提供//ASOBEAT / 01SoundEarth
『we love taxi driver.jpg』
タクシードライバー
貿易センタービルからphoto
newyork_photo
ニューヨーク_photo
タクシードライバー_ポスター
在りし日の貿易センタービルから。正面にエンパイアーを臨む。
僕が旅した当時には既に、『タクシードライバー』に登場する、通称チェッカー・キャブ″は全く見られなかった。
ニューヨークっていえば、どこもかしこもイエローキャブだが、運転はかなり荒い!
中高生当時、このポスターが僕の部屋の壁を飾っていた。この頃は監督、スコセッシの表記が「スコシージ」だった。
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