Longtail`s Cafe BACK NUMBERS

ロングテールズFILE;vol.25

TSUTAYAにでも行くか!僕のミーハー映画道楽 (´・ε・`)

そういえば、近頃とんと映画の新作、もしくは最近作、観なくなっちゃったなぁ。
劇場に足を運ぶ機会も減ったし(というか激減!)TSUTAYAに行くことさえ、めっきりである。

まあ、いいと言えばいいが、ダメといえばダメだなぁ。

大体、僕は、近作や、過去に観逃して、気になっていたような映画は、ある時、ドバッと纏めて観ることが多い。
わりと皆がこんな観方をしていると思うけど、たまに頭の中にクソもミソもごちゃまぜにぶち込んで、果たしてそこから何が沸き上がってくるか?それが見ものだからである。

最近、僕の頭の中は空っぽで、どんどん考えは整理され、明晰になる一方だ。
イカン、イカン!なまじ頭の中なんてものを空虚にしておくと、人生は失速し、その挙句、変な考えを起こしちまいそうだ。
なにしろ意識や思考は、なるたけカオス = ロックンロールに保っておくのが安全てもんだ!

さあ、そう思ったら、迷わずTSUTAYAに行こう!

しかし、どうせまとめて観るなら、レビューとは言わず、感想のひとつも記しておくか…。

て、ことで、今回はどっちかっていうと、お気楽なセレクトで、近作を中心に所見を述べてゆきますね!ロケンロール!!(ちなみに、キチンと観た順に書きますデス。よくある五つ星評価ってのも付けてみますとも)。

『パラノーマル・アクティビティ』  ★☆☆☆☆

思えば、こういう手のホラー映画は久々に観るけど、何故、僕がこれを観ようと思ったかというと、前々からオカルト・ホラー系の間では、妙〜に、この作品の名前が挙がっていたからである。つまり非常に怖えー、というのだが、しかし、結論から言うと、僕には拍子抜けするくらい、これのどの辺が怖いのかわからんかった。
大体、この題材、もしも寝ている間に恐ろしいことが起きていたら?なんてのは、怪談の中の小話として、想像して愉しむからゾッとしたり、面白がらせる程のものであって、とても、これだけのネタでひっぱり、まして一時、全米興行一位になるなんて!メリケンちゅうのは未だにドキュメンタリー風味≠ノ免疫が無いのかね?
オカルトじゃないけど、これに類する低予算フェイク・ドキュメンタリーの雄はなんといっても『オープン・ウォーター』だろうな(あれこそ怖いっ!)。
スケールは違うけど、カメラを通したメタフィクションのあり方を貫いた成功例は『クローバーフィールド/HAKAISHA』だと思う(その逆に、貫き通せず、駄作に終わったのは『第9地区』、この手のフェイク・リアルに飽き飽きさせられたのが『世界侵略:ロサンゼルス決戦』だった)。

まあ、ところでこの『パラノーマル・アクティビティ』が面白いのは、にも関わらず、案外、印象が悪く無いことだ。
物語りは日常的なやり取りが殆どで、淡々と展開するが、不思議と飽きさせない。結構、役者が、無理なく小気味良い芝居をしているからである。
何となく悪くもないが、特別怖い≠けでもないのがこの映画だ(変なの)。

大体、寝てる時に何かあったっていいじゃないか!だって、寝てるんだから…。

『トランスフォーマー』  ★★★★☆

最新のシリーズ完結作『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』がこれからDVD化されるとこだと思うので、これまで観損ねてきた前二作を一気観するかってことでひとまず鑑賞!

しかし、これは思っていた以上に、トータルな意味で良かった。
僕は一応、観たい観たくないにかかわらず、その時々のCG技術の最高作は、人類的な視覚表現の進化を測る意味で、なるべく観るように心掛けている。言ってみればオリンピックを観るようなもんで、それも一つの競技種目と思うからである。本作のようにILMがVFXを担当したものとなれば尚更だ(などと言いつつ、大分、観そびれてきたもんだなあ)。

しかし、この作品は、勿論、開いた口が塞がらない程の凄まじいポリゴン密度と、その奇跡の視覚体験に加えて、全編、コマーシャル並みのエフェクタブルな映像処理、常識的には過剰とも言える高速カットワーク、また、キャスティングやストーリー・パートのキャラクター造形に至るまで、思いの他、洒脱にしてクールである。
無論、それらが何のための演出かといえば、この世界を無理なく、ギラつくマシン・ボディーにトランスフォーム≠ウせるためなのだ。
モデル風の女の子たちの配役が、マシン達と噛み合うこと!
この作品でスピルバーグとマイケル・ベイは、確実に、子供たちの鋼鉄の夢を成仏させたと思うよ。

解ってない人はこれを映画と呼んで、そこに物語りらしいものを読み解こうとするかもしれない。しかし、実際、この作品の軸足は、映画という以上に、圧倒的にビジュアル≠ナある。しかもテクノな視覚文化の極北といって理解した方がいいと思う。

『冷たい熱帯魚』  ★★★☆☆

この作品は、惜しいと言おうか、勿体無いと言おうか…、映画のベースとなった「埼玉愛犬家連続殺人事件」というものの圧倒的狂気、あの生臭い本物の¢フ臭の前では、ちょっと捻った日本映画なんてこんなもんか、と思わずにはいられなかった。
逆に、もし、この作品にモデルなんかが無かったら…、間違いなくこれは傑作である。
そういう意味でこれは、惜しい作品なのだ。

良いところを言うと、でんでん、吹越満を始め、男優陣はもう、滅茶苦茶良い。この辺の芝居の見応えは充分である。しかし一方で、女優のキャスティングや描き方にどうもリアリティーが無い。何だか、単に監督が好きなタイプをずらっと並べたような感すらある。
だってあれ程名だたる異常事件を題材にしながら、あんな漫画じみた美形サイコパスも無いだろう(あんな綺麗な顔して遺体バラすわけもない)。
社本の女房にしても、幾ら再婚だからって、普段から胸の開いた服着てるベタな嫁さんがどこにいる?
どーも、この映画、女性の捉え方に、真実味や奥行きがない。
また、このテーマの最大のポイントである、何故、主人公が犯人夫婦の言いなりになったか?という点にしても、映画の展開だけではとても説明が付かず、これを観ながらも、むしろ意識は、実際の事件にばかり向ってしまった。
それと別の点では、例えば、遺体損壊のシーンでも、作り自体は良くできているが、何かもう一つ、人間の業が響かない。率直に言うと、かつて西口彰事件を描いた日本映画の誉『復讐するは我にあり』にあったような、あの、心を無くした人間が持つ怖さや凄みを、じっくり視点を据えて捉えるようなところがない。
そして、何と言ってもこの映画が決定的に痛いのは、ラストの展開である。
正直、これにはガックシだった。これはもう、映画のための映画であって、既に、解りやすい家族の軸を導入している伏線の時点で嫌な予感がしたが、所詮、今だにPFF(ぴあフィルム・フェスティバル)なんだな。発想が。現実の人間が持ってる怖さとはもはや何の関係もなく、画的にエキセントリックであることが過激だという、ある世代特有の青臭さが際立ってしまった。

とはいえ、結局、繰り返しになるけれど、この作品にモデルなんかがなかったら、実は観客心理を揺さぶる非常に優れた良作である。しかし、これをもって「埼玉愛犬家連続殺人事件」の核心に近いものを考えさせるには、余りに映画が若すぎる、というのが正直な印象だった。

『トランスフォーマー リベンジ』  ★★☆☆☆

折角だからトランスフォーマー・シリーズでも一気見するかってことで借りてきたこれだけど、流石にこのシリーズだけは延々、見続けるわけにはいかないんで、真ん中に一本挟んだわけだ。
なんせ、既に一本見終わった時点で、脳がトランスフォームしそうだったよ。実際。

ま、そういうわけで何とか観終えた二作目だが、しっかしまあ…、何がなんだかわからんな。こうなってくると。
まともに視認できないものと、視認させない高速カットワークが編み出す、これはもう、えらい長尺のビデオ・ドラッグだな。
更に、物語のプロット自体があり得ないトランスフォームしていて、ひょっとするとこれは映画史上、最も破綻しているクラスだと思うけど(殊にあのインディー・ジョーンズ風の激安冒険譚は辛いなー)、でもやっぱ、あの地獄の計算能力(レンダリング)には言葉がないというか、またまた、人類が目撃した最も信じ難い視覚体験更新ではある(何しろ後半の合体ロボ!もはや、おまいらアホか!?とツッコミたくなる)。

でも、ここ迄のやり過ぎ感だと、三作目観るのが殆ど辛いな〜。観たくねぇ〜。

『英国王のスピーチ』  ★★★★★

第83回アカデミー賞、作品賞を含めて最多部門を獲得したこの作品。この際、チェックしとくかって気楽な気持ちでこれも鑑賞!

しかしこれには唸った。良い!流石に良い!
何と言っても、この作品に好感が持てるのは、例えばアメリカ産の饒舌さに比べ、英国風、それもロイヤル・ストーリーらしく、きっちり抑制されていることだ。あの程よい間合いには、本来的な映画的快楽がある。
物語のテーマ自体も、史実に隠された小さな逸話でありながら、実は同時に、世界史の重要な一コマでもあるという、王室という素材ならではの物語構造が実に面白い。つまり、権威というものが生み出す、内と外の真空を、ここでは飾らぬ生身の視点で、洒脱に視覚化しているわけだ。
そしてそして、この映画がとんでもなく素晴らしいのは、やはり、王の指南役、ジェフリー・ラッシュの、あの一生ものの名演だ!!燻し銀とはこういうことを言うんだな。立ち姿だけであれ程豊かに語り得ることは、芝居というものの極致だろマジで!!
適格無比の演出と、得も言われぬ名演のるつぼであるこの作品の中にあっても、何しろあの、ライオネル・ローグという役を僕は忘れないし、何なら墓まで持ってくつもりだよ、大司教!

ところで、この作品が観客にとって本当に魅惑なのは、ローグがアルバートに行ったカウンセリングとは、実は、映画が観客自身に施す癒しと再生のプログラムなのであり、また、だからこそ我々は、クライマックス、王の誇りの復権に涙するのである。

そういえばこれを観て、ソクーロフの『太陽』でも観直したくなったな。

『ミスト』  ★★★★☆

さて、次に観たのは、スティーブン・キングものの映画化としては割と評判の高い『ミスト』。
しかし、何でまた今頃?と思われるかもしれないけれど、実は結構、以前からこれは観たかったんだけど、何故か、うちの近所のTSUTAYAには永らく置いてなかったんである。

ま、そんなわけで、やっと念願かなって『ミスト』を初観したわけだけど、さすがに噂通り、いや〜な後味の作品ではあった(いや、良い意味で)。
まずこの作品は、演出が結構、渋い。テーマとしては非常にショッキングなものなのに、敢てドラマチックな照明やBGMを排し、平板な画に仕上げているあたり、逆に不気味である。
アメリカ市民文化に根ざしたキングの作品テーストを、実に忠実に再現しているようにみえる。
恐怖に崩壊してゆく理性と秩序、というテーマは、まんま『デビルマン』のようであり、また、大型の異次元生物の造形などは、クトゥルー神話を思わせる。
確かに、これは、こうした類型作品の中でも、問題を的確に掘り下げた意味で、結構な良作だとは思う。が、しかーし!僕、個人的には、あのどんでん返しのラストは、全然駄目でもないけど、ど〜も、幾らか解せない感が残るのである。その場は衝撃に見えるが、後々、ちょっと残念である。
その理由の一つは、結局、最後になってミスト(霧)を晴れさせてしまったこと。
言うまでもなく、映画というものは終幕の後も観客の心の中で継続してゆくものである。だとするならば、あの物語の場合い、霧の限度を示すこと、つまり、事の解決は似合わない。あの霧が、ひょっとするとこの世界をまるごと呑み込んでしまっているかもしれないという、底知れぬ不安と絶望、そしてそもそも状況把握できないことそのものが、あの世界の歪んだ現実の全てなのだから。
更にもう一つは、あの終わり方だと、主人公、デヴィッドの過失ばかりがアイロニカルに浮き彫りになるか、もしくは、漠たる運命論に収束するだけだと思うのである。要するに今いち何が言いたいのかわからないのだ。

するとどういうのが僕にとって『ミスト』の結末として相応しいんだろう、とつらつら考えてみた。
まあ、一番、理に適ったラストとしては、僕だったらこうかな!(´・ε・`)

デヴィッドは止む無く4人を射殺し、車から降りると、化け物来やがれ〜、と自から叫び、挑発する(ここまではオリジナルと同じ)。
しかしその時、微かにヘリのホバリング音が聞こえる。もっと耳をそばだてると、どうやら生き残った住民を軍が捜索している模様。
既に、断腸の思いで息子を含む4人を殺害してしまったデヴィッドは、良心の呵責から深く逡巡する、が、しかし、一瞬後、結局は恐怖に負け、助けを求める。
彼は「ここだ!早く来てくれ!」と叫び、これに気付いたらしい、熱感知センサー搭載のヘリが近付いて来る様子。
しかしそれと同時に、辺りでも夥しい数の異次元生物が忍び寄ってくる気配。

主人公は一瞬早く救助されるのか?またしても不浄のものの餌食になるのか?結末さえも霧に閉ざされたまま終幕。

うーむ、どうだろう?こうであれば最後までミスト≠ェ象徴する寂寞とした不安が解消されることは無いし、恐怖の前で脆くも崩壊する倫理や秩序≠ニいう、この映画最大のテーマを補強することにもなるんじゃないだろうか?

ま、それはいいとしても、そんな可能性を観客に想像させて二度愉しませること自体、このテーマの奥行きを物語っているわけで、そういう時点で『ミスト』はマル!

『マチェーテ』  ★☆☆☆☆

これは2011年12月現在、ロバート・ロドリゲスの最新作で、いわば、あの、グラインドハウス・シリーズの一本である。確かに『プラネット・テラー』やった後、これも、やるやるって言ってたもんな。勿論、製作にタランティーノも噛んでいる。
元々、僕は『シン・シティ』が滅茶苦茶好きなんで、やっぱりこれは観ない訳にはいかないのだ。

というわけで観たけど、しかしま〜、これはつまんなかったー。僕としては、ロドリゲス作品で初めての最低評価かな…。
話は『デスペラード』の頃から構想があったというだけあって、まあ、似たようなものなんだけど、しかし、本作はどうも空回りしているというか、例の、ハチャメチャで灰汁(あく)が濃厚のロドリゲス・テイストが中途半端に薄まって、全然、キマッてないし、味も無い。殊に中盤の展開が怠いのと、敵方の大将(スティーブン・セガール)との一騎打ちが呆れるくらい、ぬるかった。
良かったのは冒頭の部分とマチェーテ自身のルックス、それに決戦場にローライダー仕様の車で乗り付ける馬鹿馬鹿しさくらいかなー。

そういえば以前、『シン・シティ』の続編の話もあったけど、こんな調子だと、あれはやるのかやらないのか?はたまた、やるべきなのかが微妙だなー。

『アウトレイジ』  ★★★☆☆

ご存知、北野武監督作品、第15作目。 これもまた、ようやっと鑑賞!

北野監督作品となると今だに僕は、あのバイク事故以前のフィルモグラフィの方に断然、肩入れしてしまう。
何故なら、脚本をきっちり仕上げるようになったと言われる事故以降の北野作品に於いては、以前、確かにあった、あの強烈なエッジを感じられないからだ。
かつての、暴力的な迄に削ぎ落とされ、高潔な迄に空疎な、アンチ・クリエイティビティとも呼べる北野スタイル!そこには、あんな風に撮る作家は他にいないと言い切れる、映画文法としての強さ・潔さがあった。
そういう意味では、今日の北野作品とは、不純物ばかりが纏わりつき、ぐっと凡庸なものになってしまった印象が否定できないのである。
さて、しかしながら、この『アウトレイジ』に関しては、どこか初期の北野作品を思い出させる、あの冴えた完結さがあった。
人間の愚かさ、可笑しさ、怖さを見詰めるシンプルな眼差しが良い。
実際に画としても、任侠社会の顔、顔、顔と、創意を凝らした暴力の形態があるだけで、色恋の一つも切り捨てられている。この空疎な反復感と鈴木慶一のミニマルなテーマ曲が、この表現が凡百のヤクザ・アクションと無縁であることを主張している。

ウム!結構、良かった。
この作品は、果てしなく繰り返される足元の掬い合いのみに焦点を絞ったことで、ヤクザ社会以前の、普遍的な人間の業の構図を見事、浮き彫りにしていた。

まあ、難を言えば、ヤクザと暴力という方法論自体が北野作品の中で、やや(大いに)マンネリ化していることと、過剰過ぎる暴力描写の濫用が、果たして観客を、単に麻痺させるだけの副作用に陥らせてはいまいか?ということだろうか…。

実際には、暴対法も厳しくなる一方だしね。

『キャタピラー』  ★★☆☆☆

さて、これもまたひと頃、話題となった作品。
何故、僕がこれを今まで観なかったかというと、もう大方お解りのように、この作品とは鑑賞者に、少しばかりの勇気を強いるわけである。

まあ、今回、やっと初観の機会を得たわけだけど、しかしこれはまた、僕が思っていたものとも少し違う、というより、かなり強烈に独特な体裁のものであった。
正直、これは劇映画といっても、反戦アジテーションに特化した完全なる教育映画である。具体的に言うと、僕は子供の頃、公民館で観て大いにトラウマとなった、実写版『はだしのゲン』を思い出した。

この作品のポイントは、何と言っても江戸川乱歩の『芋虫』との意図的な差異である。
ご存知のようにベースとなった『芋虫』が、戦争の不毛を下敷きとしながらも、最終的には人間の嗜虐的猟奇体質、つまりは、個的な欲望に切り込むのに対し、『キャタピラー』では、徹頭徹尾、戦争の狂気、戦禍の痛ましさを説く事に終始する(そういう意味では『芋虫』という以上に『ジョニーは戦場へ行った』の方に類する狙いなのだ)。
しかし、思えば、もし実際にこの通りの出来事があったとして、やはり、現実的な手応えとしては『芋虫』より『キャタピラー』の方が、その感情の機微に於いて本当であろうと思わせる。
図らずもそうした、表現の多義性を問いかける意味でも、この作品は、非常に面白い教育的℃タ験になっていると思われる。

さて、それにしても…である。

勇ましくあることの絶対条件とは、所詮、自分が強者・勝利者であると仮定≠キることでしかない。
ということはもし、予め、無残な敗北、変わり果てた自分の辛酸な将来を確信できれば、誰も勇ましくなどいられよう筈もない、という、只それだけのことを、この映画は語っているようにも思われた。

現に、いきがる人間とは、自分が実際に地獄に突入する場面を、決して想像しないものなのである。

『ブラック・スワン』  ★★★★★

今回、ひとまとめに鑑賞した最後の作品がこれ。第83回アカデミー賞に於いて『英国王のスピーチ』の作品賞に対し、ナタリー・ポートマンに主演女優賞をもたらした作品『ブラック・スワン』。

いや〜、これはまたとんでもない傑作が生まれたもんだなー。これはもう、間違いなく映画史に残る名編だよ。
僕はこの作品の監督、ダーレン・アロノフスキーという人を完全ノーマークだったんだけど、実はあの『π(パイ)』の監督だったんだなぁ(初監督作)。
それにしてもこの『ブラック・スワン』の何が凄いって、まず、撮影が滅茶苦茶良い。自然光を基調としたライティング、エッジの効いた構図、やたらカッコいいカメラ・ワーク。前半の部分だけでも名編の風格を充分感じた。
そして何よりこの作品は、サイコ・サスペンスのようであり、ホラーでもあり、また最終的にどこに落とすのかと思いきや、見事な芸術作品として結実するという、全く脱帽ものの、稀有な力技を演じている。
それはヒッチコックを思わせるし、一方で、悪魔崇拝を根底に置く物語としても出色である。
つまりこの物語とは、観る者によって様々に解釈が可能なわけで、勿論、劇中の悪夢が全て主人公ニナの強迫観念による幻影だったと解することもできる。しかし、それとは全く別の意訳を愉しむこともまた可能なのだ。

例えば僕の場合、こんな風に『ブラック・スワン』の謎を読み解いてみた。


そもそも僕には、この物語には、主人公とは別の、いわば、主人公を操ろうとする本当の主体がいるように思えてならないのだ。
つまり、ニナの心身を乗っ取ろうとする者、即ち〈悪魔〉の物質的実体…。

というのは、あの筋書きの中の悪夢が全てニナの妄想と考えるには、それぞれの出来事が余りに具体的過ぎると思われるのである。
例えば、それ自体は現実のことらしい、リリーがニナのアパートにやって来るくだりなども、明らかに不可解である。
やはり目には見えない明確な意志が、主人公を陥れようとしていると考えた方がしっくりくる。
そしてその存在は、ニナの周りのリリーを仮の姿として利用する。

ではその正体とは何者か?というと、これはもう、疑う余地なく、ニナの母親だと思う。

ニナの母親もかつてはバレリーナであったが、とうとう主役の座を射止めることなく、傷心の末、身を引き、今は絵などを描いて暮らしている(ニナとの関係が、どこかあの『キャリー』母子を連想させる)。
この母親が、実は、妬みと憎しみから、かつて悪魔に魂を売り、今度は娘の魂を使って名誉欲を満たそうとしているのである。
ただし、皮肉なことに、完璧な<vリマドンナであるためには、やはり彼女の娘も不完全であった。淫靡で邪悪な心さえも兼ね備えなければ「白鳥の湖」を主役で踊ることはできない。
このため、悪魔はリリーの心の闇に乗じ、それをニナの魂と掛け合わせることで、至上の芸術を完成させようと画策する。

初舞台当日、実はニナの運命を知っている母親は、最後の良心の為、娘を執拗に行かせまいとする。が、しかし、それは同時に邪悪なものの罠でもあった(母親がニナにケーキを進めて摂生を妨害しようとするくだりも、実は、妬みからではなく、娘を悲劇から遠ざけようとする小さな抵抗だったのかもしれない)。

かくして芸術は完成し、しかしそれと引き換えに、娘、ニナの魂(命)は生贄に供された。
母親と悪魔との契約によって…。

大きな作品、小さな作品…。極私的であることも偏愛家としての要素!!『そこから宇宙が見えるかい?』
panamarenko
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パナマレンコ
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