Longtail`s Cafe BACK NUMBERS

ロングテールズFILE;vol.20

God is in the details ? ― スピナー (映画『ブレードランナー』)は
撮影用プロップか?

2011年3月11日、幾多数の人生(命)と共に、余りに多くの物≠ェ、一瞬にして、呆気なく消失してしまった。

物にも神が宿るとすれば、あれらの神々は一体、何処へ行ってしまったのだろう?
海へ帰ったのだろうか?
それとも、彼の約束の地に留まって、今も残された人々と共にあるのだろうか?


                             ★


に、してもである。この国に住まう誰彼が皆、多かれ少なかれそうであるように、やっぱり僕も、ここのところ、震災前の心の拠り所を取り戻す為の復旧作業≠ェ最前の課題であった。

ある意味それは、マテリアルからメンタルへ、否応なく揺り戻されてしまった感受性を、あの些末な日常観へと再シフトし直す作業であった。

勿論、人々の心の中にも地脈が流れている。そこでは、これ迄、極度に飽和状態に達していたマテリアリズム(物質信仰)が秘かにパラダイム・シフトを起こし始めている。

思えば、こうした契機となるのはいつも、人智を超えた強大な法則、つまり、すべてのものには終わりがある、という圧倒的事実の汀(みぎわ)なのであった。

但し、今は未だこれを敗北とは呼ぶまい。

それはただ、そこにあるもの≠ネのである。


                             ★


さて、そんなこんなな趨勢だが、ともあれ僕も、一先ずの日常に戻って来たわけである。
さしあたって何をしたのかと言うと、設計途中だったペーパーモデルを完成させてみた。
ペーパーモデルなんて言うと、この時節にまた素晴しく卑近なネタのようで恐縮だが、もっとも日常≠ニいう以上、これはもうどうにも卑俗であって然るべきものでもある。

とりわけ、今回つくったのは「ポリススピナー」。

ご存知、映画『ブレードランナー』に登場する、SF未来車輛史に於いても、群を抜いてイメージ喚起力の高いアイテムである。
勿論、モチベーション最強当時のシド・ミードに依る極北のデザイン。



ところで、なぜ僕がこのスピナー≠30年近くの時を経て、今更ながら模型化、つまり、レプリカに仕立てて手に取ってみたい願望に駆られたかというと、端的に言ってそれは、あのオリジナル・スピナーのイメージが、これ迄、どうにも複製濫造≠ウれることを拒んできたかに思われるからなのだ(もっともそれは、例えば権利関係の所在云々とか、そういうレベルの話しではない)。

いや、明白に拒んでいると思う、実際。

しかし、拒んでいるのに何故、手をつける?

いや、いや、僕としては拒まれているから敢てそれをやってのけるのである。

何故かって?

禁≠破りたいからだ。つまり、これ。


少なくとも僕の思うに、あの「スピナー」という案件は、例えばスターウォーズ関連のアイテム群などと比較すると、余りに対象的と思われる。
まあ、核心から言えば、『スターウォーズ』とはプロップをプロップとして洗いざらい見せつけ、そこを愉しむものであるのに対し、『ブレードランナー』における「スピナー」の扱いとは、遥かに作品そのものと不可分な、いわば表現本体の御神域≠ノ関わる世界観を体現し過ぎているのである(それ単体で!)。
それが故、本編中から、本来、撮影対象物(プロップ)に過ぎぬデザイン・モールドだけを抽出し、白けた複製品としての露骨な形状を与えられることを潔しとしないのだ。

事実、映画『ブレードランナー』のあの哲学的で豪奢な世界観を手軽に箱庭化し、安易に縮小再生産することには、そこはかとない罪深さを感じる(僕としても)。
つまり、それ程までに『ブレードランナー』という作品が、今なお威容を誇る神的逸品だということであり、また「スピナー」とは、その神話に欠くべからざる説得力とリアリティーを吹き込む情景≠ニしての機能≠サのものなのであった。


思えば、作品本編の起点となる重要なイメージの随所に、このスピナーが登場している。しかし、にも関わらず、その全体像の明確なフォルムが説明されることは殆どない。

ある時は、あの未来社会の管理体制を象徴する、輝かしくも、不穏なイルミネーション(発光体)の姿で、またある時は雑踏の間に間に垂直上昇してゆく情景の断片として、またある時は、デッカードの視点を通して観客を文明の脅威≠ヨと誘う室内装置として、更には、全ての殺戮の終焉、運命を握る死神<Kフの背後で明滅し、驟雨(しゅうう)に煙るあのスピナー。

何れのシークエンスに於いても、このスピナーというビジュアル装置が、常にこの世界観の鍵を握る象徴として機能されていながら、実は、一貫してその全体像、つまり、明確なフォルムを隠されていることが解る。
実にこの点こそが重要であり、この不吉さ(不明瞭感)こそが、この虚構世界の将来やデッカード達の未来をも暗示しているわけで、また、そこのところが、実はスピナーというものの存在の本質だと思うのだ。

逆に言えば、本来、こうした〈背後〉の暗喩としての姿無きもの≠ニいう映画的言語を転倒させる些末なデテールの集積を、曰くスピナー≠ニ認めていいものだろうか?

つまりその意味で、僕らは、あの「スピナー」を縮小再生産することによって全貌解体する企ての理不尽、少なくとも、真に映画『ブレードランナー』にリスペクトを寄せる者ならば、全方位明け透けな一塊のデザイン・モールドを、即ちスピナー≠ニ呼ぶべきなのか?といった、何処となくアンビバレンスな居心地悪さを味わわなければならないのだ。

そもそも模型とは、即ち偶像崇拝に他ならない。
レプリカ≠ニは神様≠ノ触れる事が叶わない、その願望そのものが結晶した欲望の形式なのである。


逆に言えば、偶像=模型(レプリカ)には、どこ迄行っても所詮、圧倒的に現物=iオリジナル=御神体)というものが厳然と存在し、立ちはだかるわけで、例えばその御神体*{体が必ずしも三次元的認識の範疇とは限らない、例えば一本の映像を構成する世界観そのものを意識せざるを得ないケースも有り得ることは既に述べた。

要するに、模型の本来的機能の多くがレプリカ(偶像)≠ナある以上、その志向するところが模型のための模型≠ナあってはならないわけだ。
意識としてはどこまでもオリジナル≠ノ対する畏敬と考証に向かわなければならない。
もっと言えば考証=Aつまり、神に触れようとしてじたばたもがく様、こちらの方こそ僕は主体だと思っていて、むしろ出来上がったブツ≠サのものは、この行為の記録に過ぎないとさえ考えている。
レプリカ制作とは誰しもが予め、完成品の出来如何に関わらず、所詮、到達できない見果てぬ幻影に向き合う行為だからである。

例えば、模型好きにとって彼の大戦時の兵器類が魅力的なのは、実際、設計図の多くが破棄・散逸しているからである。
遺跡と同じで、既に失われ、謎が多いからこそ惹きつけられる。
魅惑≠ニ想像力≠フ融点に於いては、すべからく、解っていることが重要なのではなく、解らないことこそ肝要なのである。

一方、仮に今日、ティーガー戦車なんかを、原図を元に(兵装機能も含めて)1/1完全再現できたとして、それでも僕はそれを本物≠フティーガーとは思わない。何故ならあれはあの時代、あの一時期、その次元の中にしか決して存在してはならないものだからだ。
殊に歴史上の遺物とは必ず史実とセットなのであって、唯一、そこにだけ神が宿るのである。

ところで、かつて、アフガニスタンに於いて、バーミヤンの巨大な史跡、仏陀像をタリバンが爆破したってことがあったけど、あれはイスラム教が元々偶像崇拝≠教義で禁じていることに由来する、異教に対するみせしめ攻撃だった訳で、しかし、攻撃された当の仏教も、実は原典を辿れば、釈迦自身、偶像崇拝≠固く禁じているのであった。


映画と模型(撮影用プロップ)に纏わる逸話の中で、何と言っても僕が好きなのは、『2001年宇宙の旅』におけるディスカバリー号の話しだ。
これは映画好きには割と有名な話しだが、監督のスタンリー・キューブリックはこの作品の完成後、主役宇宙船の全てのモデル(最大のものは10メートル以上)と図面を密かに破棄させた。
戦艦大和よろしく、帝国≠フ重要機密が敵≠フ手に渡ることを恐れたのであった。

この点、やはりキューブリックは素晴しくよくわかっている。
つまり、伝説とはどういうものかを…。

一説によればそれは、続編の制作を困難にするため、とも聞くが、しかし、ともあれ、キューブリックには勿論、サブカルチャー(後のオタク文化)の指向性というのが、自ずとその表現内に登場するアイテム(デテール)を、本来の意図から離れて増殖、濫用するものだと解っていたのであろう。

(真の)作家はイメージを本流に一本化しようとするし、フォロワーはいつも御神体≠ノコミットし伝説≠ノ参画したい本来的欲望から、それを派生させようとするのである。

ディスカバリー号(プロップ)の逸話はこの両者の性質の密かな攻防をよく表している。


勿論、今日的にはスター・ウォーズやガンダムのように、(あくまで商業的合理性に則って)<架空戦記>としての拡張性≠ノこそ意味を見出すスタイルもある。が、かつて、キューブリックに代表されるような、純作家性本位の場合い、こうした主体的イメージの散逸というのが、御本尊の在りかを脅かす意味で、許されざる軽挙妄動と見なされたわけだ。

つまり、キューブリックはアッラーの神や釈迦と同じように偶像崇拝≠禁じたのであった。

言い換えれば、よしんば今日、ディスカバリー号の撮影用プロップや図面が残っていたとしても、もはやそこには神々は宿らない。あの映画に纏わる神が鎮座まします社とは、あのフイルム自体をおいて他にあり得ないと言っているのである。

なるほど、こうなるともはや、偶像崇拝とは罪深きものなのかもしれない。

あわよくば、神の擬似体(レプリカ)をどんなに巧みにこしらえたとしても、それは所詮、義≠熈魂≠燻揩スぬ張りぼての虎、この世に真実『ディスカバリー』や『スピナー』と呼べるものがあるならば、それはあのフィルムの中にしか在りはしないということなのだ。

繰り返しになるが、我々が想い描く、また、作りたかった偶像≠ニは、どこ迄行っても、実は単なる、(自らの)欲望の雛形に過ぎないのである。


                             ★


まあ、そうは言ってもなー。
実情は、つくっちゃいたい!∞何でもかんでもつくらずにはいられない≠フが業≠抱えた大衆文化というものだし、また、そもそも、神に対する背徳という愉悦(欲望)を抱えたまま、やがてその向こうに、彼岸≠ニの距離を痛感するってとこまで含めてオツなのであろう…な。この手のものは…。


何れにせよ、我々とは、今生を=イリュージョンと捉えれば、実は同義であるところのマテリアル≠ニメンタル≠フ悲喜こもごもに漂う儚気な存在なのであった。合掌。

パチモン_photograph
( 極端な場合い ) オリジナルって何だっけ?神に対して反逆の斧を振りかざす、人、物、事…。
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素材提供//ASOBEAT / 01SoundEarth
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