Longtail`s Cafe BACK NUMBERS

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勝手に画竜点睛! ― 名づけ得ぬもの

僕はかつてひと頃、未来≠フ虜になったことがある。

どういうことかと言うと、(ご多分に漏れず)コンピュータ環境がもたらす、テクノロジーの未来とかいうものにうつつを抜かし、自らがたかだかの寿命にたゆたう空蝉(うつせみ)の存在であることを忘れていた。
根拠の怪しい希望に胸踊らせるだけのデイドリーム・ビリーバーになってしまっていたのである。

要するに、個≠ニしての実≠失うという、気味の悪いトラップに嵌っていたわけだ。

大体、テクノロジーが実現する未来像というのは、ある意味、自己拡張の幻想だと思うのだが、皆が等しく拡張されてしまえば、それは拡張されたのか何なのかすらわからないではないか?

誰もがスーパーマンで、不死の存在。おまけに、何でもかんでも卒無く便利であったとして、それはそれでさぞかし良かろう。しかしそれはそのまま、人の幸福や生き甲斐に通底するものでは決してない。

人間とは、明日死ぬから即ち不幸というものではないのである。

少なくとも僕には、漠たる未来の理想郷など夢想している暇など到底、無い筈なのだ。


「未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないという生活をしている奴が何人いるか。現在ただいましかないというのが文化≠フ本当の形で、そこにしか文化≠フ最終的な形はないと思う。
小説家にとっては今日書く一行が、テメエの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、どうして今日書く一行に力がこもるかね。その一行に、自分の中の集合的無意識に連綿と続いてきた文化≠ェ体を通してあらわれ、定着する。その一行に自分が成就≠キる。それが創造≠ニいうものの、本当の意味だよ。未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。」(三島由紀夫 著 『東大を動物園にしろ』)






勿論、新しい遊び方、楽しみ方を探し求めてゆくことは、糧を得る、という生物としての基本活動に加えて、我々にとって一番肝心なことの一つであり、実際、死活問題である。

昔、ある友人と、どんな風に抜くか?≠ツまり、最高に気持ちいいオナニーの方法とは何か?について話し合った。
すると、彼は、高校生の頃にやはり同じ話題になった時、仲間が、実は驚くべき独創的な方法でナニ≠試みていたことがわかったという。
例えば、掃除機の先にちんこを突っ込んで行ってみた、なんていうのは序の口で、面白い奴になると、あらかじめ床にマットを敷き、その脇の高い台の上で気持ち良くなっておいて、いざ射精の瞬間に飛び降りるのだそうだ(何故かこれを坊主落としと呼ぶらしい…)。
また、変に付加価値を求めるタイプになると、腕立てをしながら床にちんこを擦り付け、本人曰く、身体も鍛えられて一石二鳥!なんて奴までいたという話だ。

こういう素朴な工夫や試行錯誤の末、中には異様にマニアックな性癖を開花させる奴や、果ては例の、合成麻薬に行き着くケースなど、各々の欲望の行く末は計り知れないわけだけど、まあ、ともかく、人間というのは飽くなき執拗さでもって常に新しい遊び方≠模索し、探求してゆくものだし、また、そうでなければ、途端に虚無感に追いつかれてしまうのである。

僕たちは、かつて、あらゆる知恵と工夫を駆使して脳に刺激を与え、快楽の電流をスパークさせてやることを誓い合った。 オリジナルな快楽の探求を、(なぜか)ブレイン・セックス≠ニ呼んで…。

だから今でも僕は誰かに聞くのだ。

最近、何やってんの?







僕は、元来、体質的に、口あたりのいい建て前ごとより、例え無残であっても、本当のことを直視したいほうである。
だから、物事には何かしら真実味が醸し出す怖さ≠ェ潜在していなければどうも納得できないのだ。
実際、僕は、嘘っぽいことや、白々しい態度や、要するに、事なかれ主義的いかにも≠ネタッチに、うんざりさせられることもしばしばである。

ところが、一方では僕は、そもそもこの世に本当のこと≠ネど、どこにも存在しないとも考えている。
なぜなら、出来事の真相やこの世の摂理とは、どこまで行っても結局、多角的なものだし、また、本当のこと≠ニ言われることの殆どは、実は、死ぬまで証明しようもないことばかりだから、どだいそこには真実≠ネどという神秘的な核は無く、あるのは、単に、ある種のものの見方、が存在するだけだと思っている。

では、僕の言う嘘っぽいこと≠フ対局としての本当のこと≠ニは何かと言うと、正確にはそれは本当っぽいこと(真実味のあること)≠フ意味であり、早い話がリアリティー≠フことだ。
無論、リアリティー≠ニは決して真実≠サのものを指す言葉ではない。
というより、例え、真実がどのようなものであれ(所詮、人智の及ばぬものとして)、ともかくリアリティー≠ニいうのは固有に存在し、我々に構造の核心をフラッシュ・バックさせるキーワードなのだ。


つまり、「リアリティー」と言えども、一つのものの見方に過ぎないわけだけど、ただし、僕は、この視点の在り方が、少なからず、人の生き方の態度を決定することもあると思っている。






僕は昔、というのは、十代の頃、400ccのバイクに夢中だったけれど、この乗り物だけでは決して遠くに行けないことを感じて、いつの間にか乗らなくなってしまった。

ある時、熱烈にバイクに乗りたいと言い出した奴がいて、まあ、こいつも何れ僕と同じように感じて、その乗り物を投げ出すことだろうと思っていたら、案の定、その通りになった。

みんなそうやって、多かれ少なかれ、何が必要で、何が足りないのか、考え始めるのである。

昔、「遠くに行けるのは天才だけだ」と寺山修司が言ったように、人が本当に遠くへ行くためには、あらかじめ形骸化されたステレオ・タイプな思考パターンから飛翔しなければならない。
また、真に遠くへ行く≠ニいうのは変わる≠アとなのだ。
ただ、人は、何かのために変わる必要≠ェあるのではなく、変わることそのものが人生の意義なのだと思う。

いずれにせよ、僕は変わる≠キなわち成長する≠ニいうことだけが、所詮、人間の儚い生に与えられた、唯一、精一杯の醍醐味だと思っている。






正直、僕は浅田真央ちゃんの美しい演技を観ると、いつも、何かもう、じんわり胸に込み上げて来るものがある。
清楚で、気品があって、純正統的に気高い者の本領が迫って来るからである。
それはもう、ハルマゲドンにおける神々の攻勢を見るようだ(!)。

一方、僕は、強烈に、ある種のいかがわしさ、味のある品の無いものに惹かれるところもある。
泥臭い生命力、荒々しいスピード感やスリル。
一言で言ってしまえば、まあ、ROCK!やFUNK!なものってことになるんだろうな。たぶん。

ただ、本質論でもって、果たして人間の本性とは如何ん?なんてことは言うまい。そんなことは僕には興味がない。
興味があるのは、この落差である。
発想の飛躍である。

清濁合い間見えるカオス的均衡の妙、その面白さの方こそ、画竜点睛、僕が魅了されるこの世の美のツボなのである。






昨今、僕は、マス≠ネものにいよいよ魅力が失せてゆくのを感じている。
実際、マスがやっていることは、縮小再生産の一途である。

ものの本によると、今日は、大衆化→分集化と来て遂に個人主義が大手を振っている模様。
その契機となったのは勿論、インターネット環境以降。
確かにテレビが総論として垂れ流す漠たるリアリティーなんかより、歪んだ個人の闇の深さ、宇宙の方が何かしら怖くて興味深いもんな。

すべからく、ディープな個人視点でなけりゃ面白くないというのが、きょうびの風潮といえば風潮なのである。






僕らの世代もモロにこれに該当するけれど、昨今、若い世代がひきこもったり、生存本能が簡単に折れてしまったり、キレて錯乱してしまったりするケースが社会問題化している。

なぜこんなことになってしまったのか?と、世間では、夜となく昼となく、話題に登っているわけだけど、僕の思うに、その最大の原因とは、社会やメディアが、若者に対して余りに根拠の無い夢や希望を植え込み過ぎたせいではないか、と思っている。

あなたは唯一無二の大切な存在とか、命は地球より重いとか、あなたの夢はきっと叶うとか、現実とかけ離れた恐るべき甘亊のオンパレードを、その昔に比べて遥かに長くなったモラトリアム期間に、嫌って程、吹き込まれるのである。
これによって、子供達は(当然)、過度に他人や社会に期待するようになる。人生が、偉大なロック・スターと同じようなものでなければならないと、本気で信じるようになるのである。

そういう意味では時代の進化に伴って、僕は、社会そのもののフィクション性もいよいよ極まってきたように思う。
と、いうより、それは今やもう、ファンタジー都市の様相を呈している。ジブリ・シティーだ。

ただし、今も昔も、現実の学校は、社会は、人間の実態とは、決してそんななま優しい手応えのものではない。勿論、それは、単に激烈な生存競争の場に変わりはないのだ。
この余りの言行不一致に、正直で夢見がちな若者程、裏切られ、傷つき、狂うのである。

今日のこうした問題には、社会や大人が節操もなく、まるで根拠のない夢や希望≠撒き散らしたことの、つまり、嘘をつき続けたことのツケが根底にあると僕は思っている。


また、若い世代の、人生を容易く投げ出してしまうメンタリティーの根幹には、物事に対する価値の一元化、というものもあるかもしれない。
つまり、好ましいこと、の対立概念として即、嫌なこと、があるだけで、いわゆるグレーゾーンが薄い。感受性がON、OFFと切り替わるだけなのである。

しかし、そもそも、実人生とは9割以上がグレーゾーンなものだし、また、孤独や寂しさや苦境や憂鬱をクールなムードとして、これもひっくるめて楽しめるのが大人の証明であり、パーティーやお祭りだから楽しいというのは子供の発想である。

つまり、そういう部分を語りかけられる大人自体が、今やこのジブリ・シティーには随分減ってしまった、とも思われるのである。






僕はこのサイトで、基本的にはロングテールなもの、つまり、過去の名作の復権を目指したい気持ちではあるけれど、しかし、実際に世の風潮はといえば、相変わらず、訳もわからず新作ばかりに傾注する傾向は拭えない気もする。
世の中には、万事が家電のように、物事は新しければ新しいほど意味があると思い込んでいる人達もいるのである。

しかし、勿論、芸術にしろ、映画や文学にしろ、最新のネタ≠ホかりが重要なわけではない。
実際、新しいネタを本当に求めているのは、出版社や映画会社や何とかプロデューサーみたいな、日夜、食い扶持を求めている人達の側なのである。
だから、何も、純粋に鑑賞者側がこうした事情に躍らされる必要はない。

大事なのはそこに、自分の人生に無縁とは呼べない何ものかを見いだすことであって、もともと製作年度の新旧など何の意味も持たないことなのだ。


ところで、僕は、あらゆる表現とは先ず第一に、鑑賞する側にこそ最大のイニシアチブがあると思っている。
だから、よくメディアがファン心理を煽るように、作り手の意図ばかりを詮索し、もしくは祭り上げたところで、何か意義らしいものが生まれるものでもないと思う。
肝心なのは、彼がどのように作りたかったか?などというお仕着せの解説などではなく、私は(私の生き方において)それをこう解釈する、という明確な意思なのである。

そう、微力ながら、僕がこのサイトで本当に標榜したかったのは観る¢、の意思の復権。
本来、鑑賞する、というベクトルこそ表現活動における真の主役なのだとすれば、本当に成長しなければならないのは作り手∴ネ上に、観客としての我々の側なのである。

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大きな作品、小さな作品…。極私的であることも偏愛家としての要素!!『そこから宇宙が見えるかい?』
素材提供//ASOBEAT / 01SoundEarth
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「〜すべてのものには名前がある〜 薔薇色の追悼のステディ」
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