Longtail`s Cafe BACK NUMBERS

ロングテールズFILE;vol.17

『SPACE BATTLESHIP ヤマト』は燃えているか?

本来、『2001年宇宙の旅』や『スペース・ランニング』や『ブレード・ランナー』のような映画と、『スターウォーズ』や『マトリクス』や『アバター』のような映画を混同して、ざくっと「SF」なんて呼ぶのは間違えで、前者がもとより、SF(サイエンス・フィクション)、後者がサイエンス(スペース)・ファンタジーと呼んで、もっと明確に区別すべきなのであろう。
勿論、科学的合理性に基づいた未来像をベースにした物語りがSF、デテールとしての科学的要素も取り入れてはいるが、想像力や象徴性を主体にしているのがサイエンス・ファンタジーということになる。
もっとも、何故、これらが概して神仏混合になりやすいかというと、実際には、この中間に位置する微妙なさじ加減の作品が無数に存在するからで、それもそのはずである。そもそも科学や未来とは、如何にもありそうなこと、一見、合理的に予見し得ることばかりが人類の予想図とは限らないからだ。
また、科学が進み過ぎれば魔法と見分けがつかなくなるように、本来、可能性と荒唐無稽とは紙一重の関係なのである。



さて、僕が子供の頃に大フィーバーしていた、文字通りこの、限りなく微妙なさじ加減のSF≠ニはやっぱり『宇宙戦艦ヤマト』である。
それはもう、冷静に考えれば考える程、微妙な微妙な、物件であった。

概して、松本零士的世界観とは、SFかファンタジーか、という議論でいけば、圧倒的にファンタジー、それも例えば、『スターウォーズ』を散文的ファンタジー≠ニすれば松本作品は韻文的ファンタジー=Aつまり詩≠ノ属するものであった。
例えば、松本零士が語るところのメカニカルなもの≠ニは、単に機能性の表象を指すものではなく、それは「機械」という名のポエジーなのであった。

ヤマトにしろ、『銀河鉄道999』にしろ、発想の原点としては作者が、(元を正せば海軍力を過信することから始まったテクノロジー競争としての)太平洋戦争体験、または天文学への興味、そして例えば、宮沢賢治のような詩的文学に触発されたことなどによって着想されたものと思われるが、船や機関車が、SF的、合理的根拠付けをなされぬまま、ほぼそのままの形体で空を駆けるロマンチシズムの世界は、もはやサイエンス・フィクションなどというより、星座を日々日常の事物に例える神話的世界観に相当するものであり、この辺が、(巨人神話うんぬんの非合理性≠抜きにすれば)限りなく真っ当なSFとしての「ガンダム」辺りとは全く違う点である。

ただ、そういう性格の松本流スペース・オペラの中にあってさえ、唯一、ほとんど特異な位置を占めているのがこの『宇宙戦艦ヤマト』であろう。
なぜ、特異なのかというと、勿論、ヤマトは松本零士だけのオリジナル作品ではないからで、原作者、西崎義展の意向やその他、SF作家、豊田有恒やアニメ版スタッフ達による、元来、松本作品には見られないような設定や科学考証が加えられているからだ(と、いうより、元々、戦艦が空を飛ぶ、という着想自体、実際は松本零士がスタッフ参加する以前に策定されていたもののようではあるが、しかし、何が先であろうと、ヤマトはやはり、松本作品の系列で見た時、その性格を明白に語るもの、と僕は思っているから、あえて、こういう切り口で語っているわけだが…)。
ともかく、ヤマトが他の松本作品、例えば「999」や「キャプテン・ハーロック」といった、純粋無垢に宇宙空間を舞台にしたポエジーと系列を異にする点は、いにしえの戦艦を、船そのままの形状で何故か宇宙に飛ばすという詩的な飛躍はそのままに、加えて、豊田有恒以下が関わったであろう、あの「補助エンジン始動!微速前進!ヤマト只今、第一船速!」とか「圧力弁閉鎖、波動エンジン出力120%、フライホイール接続点火!」とか「電影クロス・ゲージ明度20!ターゲット補足、ヤマトの座標に捕らえた!セーフティー・ロック解除!」とか「全員、対ショック耐閃光防御装着!波動砲発射10秒前!」とかいった、何だかわからないけど当時の僕らの度肝を抜いた、サイエンス(?)でネービーなデテールのリアリティー、これらが実に摩訶不思議なバランスで渾然一体となっている点である。
さらに、戦艦大和もののバックボーンとして、あの昭和20年当時の日本という極めてピンポイントな危機的状況を、徹底した熱意あるメタファーでもって設定の端々に織り込んでいること。
つまりこれだ。
ヤマトとは、サイエンス・ファンタジーとして(松本作品の中にあってさえ)、全く類を見ないような独特のバランス、つまり、さじ加減を持った作品なのである。
サイエンスとポエジーとメタファー、この微妙過ぎるバランスの綾(あや)こそ、ヤマトという問題の核心であり、また、しばしば混乱の原因となるのである。

さて、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』である。
これはもう、誰が考えても、絶対不可能に挑戦した映画だと思う。
これを上手いこと描くというのは、いわゆる実写化≠ニいうものの中でも究極にシンドいはずだ。それはまるで、イスカンダルに行って帰ってくるようなものである…。なんてな。

ま、そういうわけで、もう長いことヤマトのことは忘れていた僕だったが、しかしあの西崎義展さんのやや神がかりな死もあって、鵜の目鷹の目、公開早々観てきたわけである。

で、早速、結論から言えば、う〜〜〜〜ん。思った通りとは言わないが、と、いうより、思ってた感じともまた違った意味で、非常〜〜〜〜に考えさせられる結果となった。 …まあな。そりゃあな。

でも、それはあながちガッカリという意味でもない。山崎監督は山崎監督らしいやり方で、この究極の難題をよく健闘し、戦い抜いたとも思われた。実際、なる程!と肯けるポイントも多々ある。

しっかしなぁ〜〜〜。

僕の印象としては、(意外にも!)大筋の部分で、思った程の違和感は無かった。断然、問題なのは、細部の描き方やデテールの方だ。それも、ヤマト云々というより、純粋に映画的な語り口の趣向、見せ方。

ところで、本編を観る前に僕が大筋の部分≠ナ最も憂慮していたこととは、果たして、件のサイエンスとポエジーのさじ加減≠どのように再解釈し、どう調合し直し、どこで折り合いをつけるのか?という点だった。
最も、これについては、そうそう選択肢は無いものと思われた。というのは、原作のようなアニメを大真面目に実写に置き換える場合い、さじ加減としては、当然、合理性を持たせたSF的解釈できっちり再構築し直さなければ、下手をすると、非常にチープな、程の良い隠し芸大会≠フようなものになりかねないからだ。
例えば、紀里谷和明版『キャシャーン』のような意欲的実験作、つまり独特のポエジーに持っていく方向性が無いわけではないが、しかし、実際、『キャシャーン』は(あれくらいの秀作にして!)そこが理解されなかった最大のポイントだと思うし、また、今回のヤマトのスケールでは、どっちみち、純ハリウッド・スタイルの散文的ファンタジー≠ェ望まれていることに間違いないわけだ。

そういう意味ではこの映画は、ヤマトの再解釈≠ノ、当たらずとも、まずは成功していると思う。
特にそれを最も表しているのは、やはりこの作品の心臓部である、ヤマトそのもののデザインである。
初の実写SF大作仕様に、綿密に改装し直されたヤマトは、宇宙船≠ニしても軍艦≠ニしても、さすが「白組」!、(わが国が誇る)制作チームの誇りを感じる圧巻の出来栄えである。
こうした造形全般や新設定のギミック、小道具類などのアミューズメント性に於いてはなるほど遜色なく、上手いことあの往年のポエジーとしての機械£Bをハリウッド風SFスペクタクルとして今日に蘇らせたものだと感心した。

しかし一方で、僕が一番、意外だったのも、実は、最も期待していたCGシーン全般がどうもキマってない、というか、例えば、本家『スターウォーズ3/シスの復讐』の冒頭、宇宙海戦のシーンのような、シブいカタルシスに欠けていた点だ。
原因の一つは、幾つかのシーンで、宇宙空間と戦闘兵器との合成上の馴染みの悪さがあった気がする。
これは確かに難しいところだろうが、原作のファンタジー性を意識するあまり、背景の色調や彩度を明る目に設定し、星の量も多目にした、他方、概して戦艦のデテールを、やや(アニメ的なイメージを殺さぬよう)、くっきり、説明的に見せ過ぎたことによる相乗的弊害かもしれない(一度しか観てないから断定はできないが)。
要するに画として、陰影の深さが足りないのだ。シブくない。この辺りがどうも、本家ハリウッド産が標榜するところの大人の鑑賞に耐える≠チてやつに半歩遅れるところではないか?
もう一つは、巨大戦艦の雄大さを表現する、決定的にカッコ良いキメのショットが少な過ぎること。これも結局、原作をトレースしたようなアングルにカットを費やし、3Dならではの、つまり、誰も見たことの無いヤマトの雄姿をもう一つ見せ切れていないように思われた。
具体的に言えば、後半、艦首から前甲板をなめ艦橋に至る俯瞰ショットのような、あんなワイド感のある画をもっと観たかった。
結局、これらは、ここまで何度も書いてきた、サイエンスとポエジーの技術的な噛み合わせの難しさを表しているのであろう。

さて、もう一つだけ、CGパートの難点と感じたことを記すと、全般的に、どうもモーションが気持ち良く無いこと。
というか(これは果たしてモーション固有の問題なのかどうか微妙だが)、何かCGの動き全般に、軽々しく、チャラチャラした印象がある。つまり、動きそのものにグルービーなカタルシスがあまり感じられなかったのだ。
僕の思うに、これはかなり致命的な欠点になってしまった気がする…。


さてさて、このようにわりと期待を裏切られた部分がある半面、今回のヤマトには、良い意味で裏切られたことも結構ある。
その最たるものは、主人公、古代進の人物造形であった。
これは今日的によくよく考え、解釈してみると、今回の「かつてのエース・パイロット」という設定や、原作よりはずっと攻撃的になった性格、また、具体的に描かれるリーダー・シップ描写など、選ばれるべくしてヤマトの戦闘班長に任命される、という流れは、単に古代守の弟だから(たぶん…)、というだけで任務を任されるオリジナルよりはずっと無理が無いし、思いの外、キムタクが遜色なく好演している。
また、他にも、時代の整合性を計るための森雪の性格変更や、佐渡を始め、一部の隊員を女性にしたことなど、その変更点の殆どを、僕は非常に的確で説得力のあるものと感じた。
変更点と言えば、何よりあの、デスラーとスターシャ、ガミラスとイスカンダルの正体にまつわる新設定(レギオンっっ!!)に至っては、表現のデテールが万事最善とは言わないが、発想として、全くこれで良いと思った。この作品の最大の難所としては、見事、とんち合戦に打ち勝っているではないか!
それに、原作と違い、実際には何のあてもないままイスカンダルに向かうというアイデアも、実はヤマト(大和)が背負った宿命の原点を思い起こさせて、素晴らしく良く考えられている!
この点に関して、例え、ヤマトというもののサイエンスとポエジー≠フ、こんがらかり具合いの深刻さ、また、辻褄合わせする側の重責を理解しない人がいたとしても、ここは断じて、これでいいのだ!…なんちて。

そういうわけで、山崎監督らしく、全般的に人間描写や基本設定の部分で、中々の健闘をしている「バトル・シップ…」ではあるが、だがしかし、その一方で、僕はこの作品の一番の難点とは、やはり原作をいかに実写SFに置き換えるか、という難題に意識が取られ過ぎ、ヤマトも何も、肝心の映画作品≠ニして今いち芸の無い、平板なものになってしまったことだと思う。
映画の端々の、例えば、人間ドラマにしても、会話や設定だけでなく、何故もっと、画だけで語るような、いわば映画的≠ネ瞬間を作れないのだろう?思い切って説明的な描写を抑えて、画角も引きで捉え、ここ一番、この流れを画だけで語ってしまうのか?みたいな、そんな映画好きのする、大人の鑑賞に耐える詩情には至っていないのである。
それゆえ、この作品にはどうも心に響く、これといった切り札となるシーンが見当たらない。あるように見えても、実はそれは、殆どが、原作をトレースしたシーンに過ぎないのである(つまり、実写版ここにあり、という鮮烈さに欠ける.古代と雪のラブシーンにしても、あれくらいでグッとくるのはキムタク・ファンくらいだろうな)。
一つ例えると、沖田十三の人物描写などは、原作の魅力に到底、及んでいない。それどころか、例えば、彼の臨終シーンなどは、原作の見せ方の方が遥かに映画的≠ナはないか?特に沖田艦長というキャラクターはヤマトの中でも、黙して背中で語らせるべき最も映画的素材と思われるのに、よりによって、実写(映画)がアニメに映画性≠ナ負けているわけだ。なんてこった!

この他にも、僕がかなりガックリさせられたシークエンスは、実際、開始10分までの辺りである。
大体、僕は、映画は冒頭の10分見れば、およそその映画の力量がわかると思っていて、事実、これはほとんど当るわけだが、ヤマトに関しても、これはまたデリカシーの無い映画だな、という印象を持った。
あれだけ前から宣伝して期待感を引っ張っといて、これだけ雑な導入とはむしろ天晴れである。
正直、ヤマトを実写化するにあたってどうこうと言うのもいいけど、そう言うことの以前に、映画としての情緒や捻りがもう少し無いものか、と思う。
「ゆきかぜ」が特攻するくだりの見せ方の粗さにしても、大和の残骸が最初に登場するショットにしても、いきなり画面のど真ん中に全体像を納めて、それだけかいっっっ!!趣向は?当然、金かけた映画としての、おお、そう来たか!ってな趣向は?と思わず突っ込みたくなった。どんだけベタなんだ!…と。

そしてそして、前半部分と言えば(これは全編通して一番痛恨の出来事でもあるが)、この作品中最も肝心の見せ場、ヤマト出現のシーンが全然、鳥肌もんじゃなかったのだ。ちゅうか、地中から飛び出したヤマトをぐぐっと寄りでど迫力に見せていない。何だかわからないけど、全体を収めたつまらない側面のショットだけで、そのままふわりと垂直に浮き上がるだけ(変な仰角)!なんだこりゃあ!?そんだけ?大体、この映画は、最悪、ヤマト自体が滅茶苦茶カッコよければまあ良いってもんじゃないの?波動砲とか流れなんかより、ここは本来、観客が、蘇ったヤマトの大迫力に震えるところなんじゃない〜〜の〜〜か〜〜〜な〜〜〜〜〜〜。

そういえば、この映画のデリカシーの無さと言えばもうひとつ。後半、ガミラスが放った妙なフェイス・ハガーみたいな兵器が波動砲の砲口を塞いで(これは原作にもあったエピソードドリル・ミサイル≠フオマージュ)、これを伏線として最後「愛の戦士たち」になぞらえたヤマト特攻の根拠付けをしているわけだが、しかし、それにしても、まだイスカンダルにも到達する前のあんな段階で、実写オリジナルの変な物を艦首にくっつけっぱにするメリットとは何だろう(七色星団戦の順序?変なところで律儀だな)?あんなのがあるお陰で、あれ以降、折角の超絶3Dヤマトの航行シーンが台無しではないか(怒)!実際問題、往年のヤマト・フリークというものは(『男たちの大和』なんかもそうだけど)ヤマトのCGシーンだけを切り出し、密かに編集して愉しむくらいが常識なのである。だからあんなものは特攻直前にピッと付けてサクッと逝けば皆が幸せになれたのに〜〜!そこまで考えないところが、なんというかこの、デリカシーの無い所以である。

さて、最後にもう一つだけ難点を付け加えるならば(ゴメン)、日本映画がこの手のものをやる場合い、非常にありがちなことだけど、予算もあってか(あるだろうな、そりゃあ)、スペクタクル≠ノしては、ど〜〜も場面のスケールがこじんまりと小さい。
これはやっぱり今回のヤマトもそうである。それはもう、『三丁目…』とは言わないが、『四丁目半…』くらいかな…。特に、探し求めたイスカンダルで、スターシャと接見する、本来、人類的なシーン。ちっちゃかった〜〜〜。何でしょう?日本人の性って…。



やれやれ、この辺でそろそろ、今回勃発したヤマト実写化騒動の総括も終りにしたいわけだけど、でも、何だかんだ言っても、よくあれだけ入り組んだ山の頂上を目指す気になったもんだよね。宮川泰のオケという援護もないまま実写の海に出撃するなんて!何よりその、どてらいカミカゼ・スピリットには敬服しますな(ヤマト式敬礼!)。

最後の最後に、どうでもいいことだけど、僕は今回、バトル・シップ≠観るにあたって、一応、復習の意味で、松本零士のノベライゼーション漫画版ヤマトを全巻読み返してみたわけです。すると、まあ、まあ、まあ、退屈なこと!やっぱりヤマトってのはストーリー云々じゃなく、あのデザインと、独特の詩的ムードが全てなんだなって再確認した次第です。要するに雰囲気的なもの。

しかし、にもかかわらず、昔、トラウマになった世代は記憶の中で巨大な妄想のヤマト・ワールドを作り上げているのも事実でしょうな。
実写版を観終えた時、僕の周りの客が憮然と「原作と違うし…」と呟いていましたっけ…。
つまり、実写版ヤマトの本当の敵はこの盲目の愛なのですよ。まあ、実に厄介な敵だなあ。
だから、「愛の戦士たち」なのかな?…ちがうか。

軽度ネタばれ注意!観てからがオススメ!
映画版ヤマト1、2パンフレット
劇場版1、2作、初公開時パンフレット。松本零士のサインは当時、原画展に行って貰ったもの。
ささきいさおのも何処かで貰った記憶があるんだけど、今いずこ?
「愛の戦士たち」パンフより
在りし日の富山艦長代理と麻上レーダー班班長!くしくも、最近、西崎艦長が出航され、先発の艦長
代理と合流されました。 「地球か、何もかも皆、懐かしい …」。 ご冥福をお祈りします。
割り箸艦隊
筆者が小学校5年か6年の時に割り箸やつま楊枝で工作した宇宙艦隊!旗艦ヤマト以外はもちオリジナル。
当時あったヤマトのプラモデルとしては、先端が広がったデフォルメ・モデルが懐かしい。
落書きヤマト
久しぶりに、チラシの裏にヤマトの落書きしてみたよ!バトル・シップ版のヤマトってこんなフォルムじゃ
なかった?昔、教科書にこんなの嫌って程描いたさね!先生に叩かれたさね!
大きな作品、小さな作品…。極私的であることも偏愛家としての要素!!『そこから宇宙が見えるかい?』
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