Longtail`s Cafe BACK NUMBERS

ロングテールズFILE;vol.11

突然ですが 『MADMAX』 フォーエバー!
ペーパークラフトINTERCEPTOR Free DownLoad Now !

今回は少し趣向の違うものを制作したので、ここにフリー・ダウンロード公開してみたいと思います。
何かというと、下の写真にあるペーパークラフト!なんス。
この黒光りする渋いマシン!もうお解りですね。アレですよアレ!アレをナニしちゃったワケですよ!そう、映画『MADMAX』に登場する(改造型)追跡専用特殊車輛インターセプター。しかももちろん「1」の方ですよ、お父さん!
あの夜空を見る度、思い出した%`説の怪物マシンを今回、紙のプラモデルというかたちで勝手に復活させちゃいました!

ところで、映画『MADMAX』(1979年公開)といえば、言わずと知れた、リアル・バイオレンス・ホラー・ムービーのキング・オブ・キングス。最近では『ターミネーター4』がアクション・シーンの中で『MADMAX2』(1981年公開)本編と見紛うばかりのオマージュを展開していたり、また、イラク戦争の影響で頓挫していた『MADMAX4』(当初の副題は Fury Road)だが、近年、3Dアニメ(!)で製作されるとか、メル・ギブソンは出演しないらしいとか、様々に情報が錯綜する中、どうやら今年、じきクランク・インしそうな情勢である(因みに今作の主役は女性で、一部情報によれば、確定的であったシャーリーズ・セロンから別の女優に交代したとも伝えられる)。
ここへ来て、また何やらジョージ・ミラー監督がぶち上げようとしているらしいマッドマックス・シリーズだが、しかし何といっても『MADMAX』といえば「1」である。「2」である。何故ならそれは、他でもなく、あのマッドマックスの象徴、「ブラック・インターセプター」が登場するからなのだった!

う〜む、苦み走った憎い奴!ブラック!ブラック!

さて、実は僕は訳あって、こういうもの(ペーパークラフト)も制作したり研究したりしているわけですが、ではなぜそんなことをするに至ったのか?その辺の事情については、以下につらつら記しておきますので、よろしければこちらもぜひ、ご覧下さいませ。

まあ、それはともかくとして、たまには童心に帰って紙工作などしてみるのも意外に新鮮なものですよ!
もっとも、ペーパークラフトが初めて、という方には、少々、ハードルが高めかとも思いますが、そのかわり、「ペーパークラフト制作の基本」と、出来るだけ詳細な組み立て説明書も添付してありますので、ぜひ、この機会に挑戦してみては如何でしょうか?きっとペーパークラフトというものの、2次元(紙)から3次元曲線に変化してゆく独特の面白さ、奥の深さを堪能できるはずです!
今回のベースモデル制作には3Dソフト(Maya2009)を使用し、デテール考証も、可能な限り詳細に行えたと思います。

願くば、これを作って、あの、カー・バイオレンスの決定版『MADMAX』を今一度、観返してみることで、より多くの発見、またその魅力を体感して頂ければ、と願っておりまス!

papermodel worldページからダウンロード可能です。

なんでまたペーパークラフト? ― 僕の3DCG放浪記 ―

みうらじゅん安斎肇の深夜ラジオでひと頃、あれはCGですか?≠チていうネタがあった。これはハリウッド映画を筆頭に、3DCGソフトの急激な進歩によって、現実(実写)とフェイクの境界がもはや判別不能となったきょうび視覚表現事情を軽く茶化した余興であった。街で妙な状況に出くわしたけれど、あれはCGですか?という具合に使うのである。

実は僕はここ10年程、このCGに携わる仕事をしてきた。

一口にCGといっても技法的には2D系CG(ペイント系、ドロー系ソフトを使用する)と3D系CGの技術をミックスして行うのが常である。
表現ジャンル的には動画(映画、映像、ゲーム業界)と静止画(広告出版業界)などでオールラウンドに活用されている。
因みに言うと、もともとコンピューターを利用して精製されるすべての視覚化のことをコンピューター・グラフィックス、CGと呼ぶのであるが、例えば静止画業界の場合い、2D系CGの技術を使ってはいても、3D系ソフトは一切使わない場合い、それは通例CGとは呼ばず、旧来のイラストとかレタッチ(写真等の画像を補完する技術)などと呼ばれたりするから、その意味ではどうやら3D技術が使われていることこそ本来CG業界≠スる所以のようである。
ところで今日、2D系CGも3D系CGもそれぞれ専門的に特化した表現技法として確立されてはいるけれど、しかし両者にはその存在意義に決定的な違いがある。
というのは、2D系CGとはもともと、既存の人間の手による表現技法をデジタル上に再現しようという方向性を持っているのに対し、3D系CGとは遠近法による空間概念の再現、またそれに加えて写真の持つ光学的物理特性のシュミレートに主眼が置かれている。つまり、ひとことで言ってしまえば、本来、3DCGとは絵を描くための道具でもなければ表現を主体としたツールでもなく、その実態はあくまでシュミレータなのである。
逆に言えば、シュミレータとしての機能を表現≠ノ利用しているに過ぎない。だから、実際、3Dソフトは別名、CAD(Computer Aided Design)とも呼ばれ、建築設計やプロダクト(工業製品)の検証、また原型製作用の実データ、レンズや照明の光学検証など、およそ表現ジャンルに止どまらず、様々な場所で、より実務的に活用されているわけだ。
まあ、とりもなおさず、3DCGとはデジタルにおけるビジュアライズ・システムの中で最も高度な演算式を要し、常に莫大な開発資金をかけて開発され続けているのだが、特筆すべきは、その最先端技術の多くが、実はILMやらピクサーやらハリウッド系資本の特注を受けてまず開発され、その後、ソフトというかたちで市場に落とし込まれるというスタイルである。だから、3DCGの最新技術はいつもその時々のハリウッド大作の要素(特殊効果)というかたちで僕らに届き、それはそのままCG開発の歴史を刻んできたのである。

冒頭のあれはCGですか?≠ニいうお題目は、実はこの熾烈なCG技術の開発競争が、ある意味、映画そのものをそっちのけにした開発力(国力?)の品評会と化してはいまいか、という意味の揶揄なのであった。

ところで、表現において3DCGが提供する世界観とはもう言うまでもなく、物理現象を精密に捉えたリアリズム、つまり「写実」ということになる。
もっとも、比較的早くから、ノンフォトリアルといって、ディズニーやピクサーのフル3Dアニメに代表される、一見、クレイアニメを連想させる外観の3DCGなども模索されてはいるが、しかしあれとて、本質的には合理的、物体的にシュミレートされた骨組みの表装をイマジネーティブにコントロールしているに過ぎず、従来の手描きアニメのように、骨組みも何も、根っから感性だけで描かれたものとは全く別の風合いを持っている。
つまり、基本的には、3DCGを何らかのビジュアル表現に応用したい場合い、それはおのずと写実(リアル)表現を指向することになるのである。

さて、僕がちょうど10年前、3DCGに出会った頃というのはまだ世の中が3DCGというものの潜在能力をもうひとつ計り兼ねている、もの珍しさの時代であった。
当時の僕はといえば、正直この3DCGが表現%Iにどういうものであれ、むしろ、科学の最先端と表現の現場が直結するという、そのことの方に観念的ファンタジーを感じていた(これはつまり、それまで文系も文系の純アナログ人間であった僕の、幾らかマシン・コンプレックスのなせる技、とも今では回想するのだが…)。

僕はグラフィック系の人間だが、実は僕にはこの頃、仕事以外に個人的に取り組んでいるグラフィック作品にもぜひこの最先端テクノロジーを取り込んでみたい(そうでなければ、せっかくデジタルをいじっている甲斐が無かろう)などという色気もあった。
こうして僕は、コシタンタンと技術を身に付け、果してどんな表現としてこの3DCGなるものを自作に昇華させるべきか、そのことを具体的に考え始めていた。
ところが…、である。当初の思いとは裏腹に、なぜかいつまで経っても作りたい欲望が湧かない。表現衝動がそそられないのである。そしてその理由を僕は程なく理解した。
つまり…、何てことはない。3DCGとは一枚のビジュアル作品(グラフィック)のために利用する限り、それは仕上がり体裁が3D(三次元)ではなくなるということだ。当たり前だが、最終的にそれは、3Dから抽出しただけの、へんてつもない2D作品に収まってしまう。実にこれが僕を萎えさせた原因だった。
更にまた、その一枚絵として描き出すものが、タッチとしては没個性の「写実」表現に過ぎないのだ。
殊に僕の場合い、社会活動(仕事)の上の利便性からこれを利用するのでない限り、自己表現の場では、イラストというより現代美術志向である。美術や芸術の文脈からいけば、今更「写実」でもなかろう。
確かに動画における3DCGの意義はとてつもなく大きいと思う。完璧にビジュアル革命だ。そこでは文字通り3Dが3Dなのである。しかし2次元媒体上の、それも表現としての3DCGの意義は正直、微妙である。
考えてみれば絵画史における「写実表現」とは、写真機が発明されたことにより、その殆どの役割りを終えている。なぜなら、古典絵画が発展させた写実技法とは、例えばワイエスのような酔狂ではなく、厳密な職人による時代の記録が主な制作動機だったからだ。
画家の筆致による、写実性の精度を競う意味や価値は「写真」という極点があらかじめ設定されてしまうと、一旦、崩壊したのである。
以後、絵画はどんどん表層のリアリティーからかけ離れ、心の内面や思想を表現≠キることに重点を移してゆく。
その後、1970年代に入ってから、一時、現代美術の脈略に「スーパーリアリズム」(または「フォトリアリズム」)なる芸術運動が興った。正にこれが20世紀以降の写実≠ノ対する問題意識を明白化していた。
リチャード・エステスやチャック・クロースの作品を見れば解る通り、それは人間の視覚というものを写真機の原理になぞらえ解き明かす企て、あるいは、人間が世界を丹念にトレースするという行為≠サのものを浮き彫りにする、もはや純粋なコンセプチュアル・アートだったのである。無論、そこにはかつてのような「写実」に対する情緒性も美的カタルシスも存在しない。
俗に僕らが「スーパーリアリズム」なんていうと、今日のデジタル環境以前、80年代の横山明や斎藤雅緒のような、エアブラシを使ったイラストレーターを連想するかもしれないけれど、実はあれはメインストリームであるアートが一段降りて大衆化し、消費されてゆく流れだったのである。
若干、蛇足になるが、アートがその役割りを終えて一般に消費されてゆく道程というのは、決まって思想性を剥がされ、単にテクニカルに様式化されてゆくものなのである。良かれ悪しかれ、これを「イラストレーション」というものが担っている場合いが多い。
さて、まあ、そういうわけで、方法論としての特別な価値を一旦失った「写実」だけれど、しかしここへ来て、今度は超高度なデジタル技術による「シュミレータ」というかたちで再浮上したのであった。
しかし、とはいえ、先述した通り、動画においては、不可視を過去のものにするがごとき活躍の3Dテクノロジーも、こと、2D表現上においては、その表現としての意味はといえば、過去の「スーパーリアル・イラストレーション」から五十歩百歩程の存在意義しか与えられていないように見える。というか、直接、人の手による技すら介在しない分、さらに中途半端かもしれない。
かつての人の手による「リアル」には、少なくとも「人が世界をトレースする」ということの、肉体によるリアリティーがあった。一方、「写真」には、何より決定的に時間を刻印するという意味、つまり「記録性」という重責がある。その点、3DCGから抽出された一枚の画像には、例えそれがどんなにリアルな外観を持っていようとも、ただそれだけでは所詮、このどちらの要素も欠落しているのである。
更に、もうひとつ付け加えるならば、3DCGのレンダリング(画像化)技術とは、現在のところもまだまだ過渡期であり、今でも恐ろしい速度で進化し続けているということがある。つまり、ちょっと過去のレンダリングなど、あっという間に見るに耐えないレベルのものになってしまうのだ。
技術レベルのボトルネックのせいで作品自体がみるみる間に風化してゆく…。これは今のところ、3DCG表現独特の現象である。つまり、このことは、現在の3DCG環境が、如何に技術論ばかりに収束せざるを得ないかを物語ってもいるのである。

さて、少し長くなったが、そんなわけで僕は、どーも、3Dビジュアルを積極的に自分のグラフィックに落とし込むべきモチベーションを持てずにいた。ということはつまり、それならそれで、何とかこの素晴らしいシステムを小粋に@用する良い方法は無いものか、と別の角度からも考え始めたということである。

動画以外の面白い3DCGの在り方…。

最初に僕が思い至ったのは、そもそも、3Dは3Dであることが大前提である、ということだった。至極当然である。そういう意味では昔、立花ハジメが、それでつくられた表現よりも何よりも、一番凄いのはソフトそのものだ!との閃めきから、「信用ベータ」というIllustrator用プラグインを開発したように、この場合い、3DCGにおいても最も尊重されるべきは、副産物としてのレンダリング画像よりもまず、3Dデータそのものではないか?と考えたわけだ。
そう考えて見るとおのずと僕の心に立ち上がった発想、それは、3Dデータ自体を作品なり商品としてネットなどで流通させる、というものだった。
この頃、日本でこの考え方を本格的に戦略化しようとしていたのは、Shade(国産3Dソフト)やPOSER(3D人体作成ソフト)の開発元、イーフロンティアであった。
さらに海外の3Dデータ関連のネットワークを見渡して見ると、公開された恐ろしく精度の高い、しかもマニアックなモデル・データがあるわあるわ…。
かつて一時「バーチャル・アイドル」や「デジタル・ビューティー」なる言葉が取り立たされたが、これは、3DCGで形成された架空の女の子のモデルを様々にレンダリングし、それらを実在するタレントのように認知させようという動きであった。もともと日本では、データそのものに価値を与えようという発想は、この辺りから着想されたもののようである。
僕は当時、海外サイトで流通される夥しい数の人体モデル・データなど眺めては、その、あたかもレプリカント市場(タイレル社?)にでも紛れ込んだかのような、サイバーパンクな光景にそそられ、ただそれだけで魅了されていたものだ。

ともかくこうして、一時、3Dデータ自体の存在価値に魅きつけられた僕だったが、しかし結局、これは長くは続かなかった。
なぜなら、3Dデータということになれば当然、発信する対象が3Dソフトユーザーに限定されるわけで、ということは、その世界のプロか、もしくはホビー・ユーザーにしても相当コアな層と決まってしまうからである。何れにせよ、余りにピンポイントな人々をターゲットにせざるを得ないのだ。
大体、僕は、3DCGの世界の、周囲の無理解と我が同胞達のマイノリティっぷりにウンザリもしていたから、これ以上、穴ぐらに首を突っ込むような真似は慎みたかったのである。
そう、3DCGを取り巻く文化的状況とは、現状においても、そのテクニカルな部分の敷居の高さから、非常に限られた、マシン・コンプレックスな人々の関心事項に甘んじているのである。

例えば、3DCGというものの基礎的な知識を持っておらず、当然、3Dソフトに触ったこともないような人でも、あの理論計算から割り出された3次元構造物の不思議さ、面白さを体感できるためには、文字通り体で感じる≠アと、つまり手で触れられなければ難しいのかもしれない…。

そういうわけで次に僕が行き着いたのは、実は、3Dプリンターというやつだった。
3Dプリンターとは、読んで字のごとく、3Dデータを解析し、実際の立体造形物へと出力してくれるという、夢のようなマシンのことである。
これならば、懸案の3Dが3Dのまま≠ニいう問題も、ある意味、これ以上無いかたちでクリアしているし、データのような煩わしさや排他性が無いから、したがって何ら説明の必要も無く、これで精製された3次曲線こそ万人のものと成り得るだろう。願ったり叶ったりではないか?
ところで、3Dプリンターには様々な方式が存在する。どこが違うかというと、造形物を精製する材質がそれぞれ異なるのである。例えばABS樹脂や硬化性樹脂や石膏等を原材料とし、方式としてはドリルで彫刻するようなものもあるが、現在主流なのは、インクジェット・プリンターの原理を応用した、原料を積層してゆくタイプである。
僕は夢中で資料を取り寄せ、また、展示会などにも足を運び、実際の出力機や立体出力されたサンプル品なども手に取って検討してみた。
確かにこれは非常に魅力的なシステムだった。3DCGの用途としての方向性を、最も理に叶ったかたちで我々に提示しているように思われた。最終的にはこれこそが究極にして、何より真っ当な3Dデータの使い途なのではないだろうか?
ただ…、より具体的に3Dプリンターの利用の在り方を考え始めた僕は、またしても様々なネックに行き着くことになってしまった。
考えてみれば、3Dデータから立体出力するという技術自体は別に、昨日今日、可能になったというものでもない。冒頭の方の3DCGの説明でも触れたように、実は工業製品の世界では、3Dデータから直接、立体へ削り出したり、あるいは検証モデル制作用としてとっくの昔から利用されているテクノロジーなのである。
ただ、この場合い、なぜ僕がこれに注目したり、また昨今、表現を巡るCG業界でもやや話題になり始めているかというと、早い話し、比較的廉価な3Dプリンターが登場し始めているからなのだった。つまり、これにより、ようやく、僕らのようなクリエイティブ畑の人間でも、バーチャルな創作物でしかなかった3Dデータから現実の立体物を取り出すという、何がしか新たな表現にチャレンジできるチャンスが巡ってきたというわけである。
ただし…、この廉価というのは今のところ、まだまだ微妙な値段であって、3Dプリンター本体は、最も安価なものでも、なかなか個人で購入できる値段ではなかった。また、企業が導入するにも、この手の物の技術の発展ペースを考えれば、投資時期の部分で二の足を踏む筈だ。もっとも、出力サービスなども存在はするが、無論、マシン本体に比例して、気楽にトライ・アンド・エラーできる料金具合いでもない。更に、もっと高品位な出力方式を求めるなら、俄然、値段もはることになる。
やはりこの点は実際に創作を行う上で決定的なマイナス要因になるものだ。
また、別の問題としては技術的な制約、例えば、製作可能な大きさの問題や、強度的に作れるパーツの細かさの制限といったボトルネックもあるにはあるが、実は僕にとってはそれよりも、もっと基本的な部分でこのプランはどん詰まりを見せたのである。
それというのは…、仮にこの3Dプリンターで何かしら物を製作したとする。ではそれをどんなスタイルで、誰に向かって展開すればいいのだろう?ということだ。
例えば、綺麗に塗装して一点ものとしてどこかで展示する?一体何処で?
あるいは、マニアックなホビーとして自己完結する?それとも今から造形師でも志すか?
はたまた、出力したものを原型として、出来得る限り量産し、どっかで販売してみる?その場合い、塗装はどうする?中国にでも発注する?そんなルートがあるのか?大体、どこで販売するんだ?ワンフェスにでもエントリーしてみる?そうなると、またまたコアな限られた人々だけを対象にする羽目となる。第一、ブツを量産するというのはもうまったく別の話しである。ワンフェスの会場で海洋堂の社長にいじめられそうである。
そう、あちらを取ればこちらを取れずで、こうなってくるとはや、データ配布案の超空間性が俄然、有益なものに思われてくるのであった。

う〜ん。どうもこう、3DCGってやつはいろいろ使えそうでいて、帯に短し襷に長しというか、意外に使い勝手の薄いものなのか…。

そんなこんなを思いながら、ある時、僕は、とあるweb上で不思議な画像を見つけたのだった。
それはといえば高校生達が段ボール紙で2メートルくらいもありそうな巨大ロボットを大量に作っている様子だった。

これ凄いな。紙を組んで作っているのに、すごくよくできている。しかも、高校生がこんなでかいものを一体、どうやって作ったんだろう?

その突拍子もない光景に少しばかり呆れた僕がその答えを辿ってみると、意外な事実に辿り着くこととなった。実はそれは、3Dソフトを使って設計されたペーパークラフトだという。

ペーパークラフト?しかも3DCGをそんなかたちで、いわば立体出力する方法なんてあるのか? それも、ごく単純で直線的な形ならいざ知らず、非常に複雑な曲線まで表現しているではないか。なんだこりゃ?

そう、これをきっかけに僕は、3Dデータからペーパークラフトを作成できるソフト(ペパクラ・デザイナー)の存在を知ったのだった。
ただまあ、なにせ素材が紙である。いかんとも紙っぺらなのである。僕とて、始めのうちは単なる物見胡散で情報を物色していたに過ぎない。しかし…、徐々に概要が掴めるようになると、これはひょっとして、と思うようになった。案外小粋な@用法となるかも…。
なぜならこのペーパークラフトというものであれば、僕のホームグラウンドである2D、つまりグラフィカルな要素を持ちつつ、同時に、組み立てれば3次元曲線を描くようになるわけで、これは逆に言えば3Dが3Dである≠ニいう要件を満たしながら、かつ3Dデータ上のテクスチャーもそのまま使えるということである。
無論それは、3Dプリンターから出力した立体に塗装≠キるようなこととは根本的に違う(大体、僕は塗装のプロではないのだ)。
また、高校生達のロボットを見ればわかる通り、考えて作れば大きさの制約も無く、勿論、素材がデータと紙(プリント用紙)だからコスト的にも充分安価だし、また、ユーザー側に特殊なスキルを要求することもない。
更にそれよりも何よりも最も重要なことは、このプランだと開かれた展開≠ェ可能だということだ。つまり、配布形態である。企業であればキャノンやヤマハ発動機やエプソンなどが本格的にサイトを通してペーパークラフト・データを配布しているように、至って容易な方法で不特定多数に向けて発信することが可能なのである。 そう、データとしてwebに乗せられるわけだ。これはとにかく決定的な利点であった。

ま、というようなわけで、僕は一旦、この3DCGベースのペーパークラフトというものを採用し、兼々、お題だったところの3DCGを応用して何か面白いこと出来んもんか?≠ニいう問いにチャレンジしてみる気になったわけだけど、しかし、勿論、このスタイルが今後も最善か?というと、そればかりはわからない。
言うまでもなく、技術というものは、その時々で日進月歩、様変わりしてゆくものであり、その意味では、この10年、僕なりに3DCGの世界を放浪し、探検してみて、思いがけずペーパークラフトという島に漂着したとしても、それはあくまで結果論であって、これも一つの過程に過ぎないと思っている。

無論、ペーパークラフトだけで多くを表現出来るわけではない。
第一、ペーパークラフトには、ユーザー自らが紙を切り抜き、組み立てて作らなければならないという致命的な煩わしさがある。
これは結局、特殊なスキル≠ニは言えないものの、綺麗に作るためには、手間と根気とそれなりの技術を要求することになり、ターゲットとしても、やはり、ある程度、限られた趣味層に限定せざるを得ないことにはなる。
しかし、これは僕はちょうど、プラモデルと同等のウイーク・ポイントであり、また裏を返せば、面白い点でもあると思っている。
例え、実際、作らなくとも、作れば作れるということに意味がある。同時に、好みのペーパークラフトをダウンロードし、ワクワクすること自体には、何らユーザー側に要求するものはないのである。
また、プラモデルという意味にかけて言うと、僕は、このペーパークラフトというものを瑣末ながら幾つか設計してみて、微かに、プラモデルを開発する人の喜びというものが思い遣られる気がした。
心血注いで考案したものが、何処かの誰かに作ってもらうことで共有される。例えば、僕の場合いは、3Dデータ(ポリゴン)というものの構造の不思議さ、面白さを肌で追体験してもらうことにもなる。
実際、僕は、最初の自作を一体組み上げた時初めて3Dデータに直接触れた≠ニいう不思議な感動を憶えたものである。

最後に、僕がペーパークラフトを割と気に入っている点をもうひとつだけ挙げて、ここは閉めることにしよう。
それは、あの程よいユルさ≠ノついてである。
そもそも、ペーパークラフトというものは何処まで行っても、さしてシリアスなものではない。
目くじらを立てる程のものではないのである。水をかければ溶けてしまう、紙っぺらなんだし…。
これは僕にはちょうどいいトンパチ具合だ。
だって、3DCGが四角四面で洒落がきかないから、その応用法はこのくらいでちょうどいいのである。

ただ、それは仕事でやってても説教されかねない程で…。

まあ、とは言え、近頃に至っては、「また、また、何、トンパチなことやってんスか?」なんて、そんな声すら快感になってきた。

追伸.
実はペーパークラフトINTERCEPTORを公開した後、海外のDarryl Lewisさんという方からメールを頂きました。僕はこの内容を見てびっくり!ななななん と、下の写真が添付されているではありませんかっ!!感の良いマッドマックス・フリークならもうお解かりの通り、MFP仕様の革ジャンできめた(おそ らく)Darryl Lewisさんご本人と一緒に写っておられる三人の中年男性、彼らは紛れも無く往年の「グース」「トゥーカッター」「ジョニー・ザ・ボーイ 」その人達だったのです!!さすがにこれには僕も感謝!感激!感無量!といった具合いで、INTERCEPTORやっててよかったー!と心から報われた気持ち になれました。因みに、手紙の文面にはイキな文句も添えられていてHere is my real Pursuit=Bそう、この追跡≠ニいう意味のPursuit というフレーズは、実は彼らの背後に控えるイエロー・インターセプターの後部に刻印されているものでもあったのです!Darryl Lewisさんありがと〜〜 〜〜〜〜っ!!Thank you 〜〜〜〜〜〜っ!!

大きな作品、小さな作品…。極私的であることも偏愛家としての要素!!『そこから宇宙が見えるかい?』
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