思えば、あれ≠初めてからというもの、一つは強烈に再認識されたことと、もう一つは、果してずっぽりハマってしまったこととがある。
あ、そうそう、初めに断っておくと、今回は早くも、ロングテール≠ナも何でもない、最後まで旬な話題を語る成り行きなので、あしからず。
話を元に戻すとあれ≠ニは何かというと、例の、動く絵をテキトーにシェアし合う…、まあ、要するにつべ≠ナある。
そして強烈に再認識されたこと≠ニは、松田聖子の素晴らしさである。更にずっぽりハマってしまったこと≠ニは、第二次世界大戦関連の動画のことだ。
僕はひと頃、性懲りもなくつべにアクセスしては、戦争 → 松田聖子 → 戦争 → 松田聖子 → 戦争 → ムード歌謡 → 松田聖子 → 深海魚 → 戦争 → 戦争 → 戦争といった具合に、何でもかんでもこの二つを掘り下げまくっていた、という話しである。
松田聖子…。
まず僕は、図らずもこんな所で松田聖子をしみじみ鑑賞し、再体験することで彼女の尊さを再評価する羽目となった。
というのも、僕はかつて松田聖子のデビュー当時、一瞬、ファンだったことがある ((´∀`*))。
ちょうど『青い珊瑚礁』から『風は秋色』の頃だ。読売ランドに行って紙テープを投げたのである。
そんなわけで、僕にとってこれはちょっとした原点回帰となった。甘酸っぱい思い出の追体験であった。
戦争…。
次に、戦争について言えば、どうも僕は第二次世界大戦、とりわけ(無論!)太平洋戦争に関しては、年を経る毎に益々、(いわば)民族の原風景としての感慨を抱くようになった。
これは決して、戦争の善悪の問題ではない。むしろ、昨今、日本人とは元々何処から来たのか?∞人間とは果して何処へ向かいたいものなのか?≠ニいう疑念が抜き差しならなくなってきた証左でもあろう。
早い話しが、あれを境とする以前の爺ちゃんや婆ちゃん達の生き方、彼等の人生に対する粋≠ニいうものに、何がしか思いを馳せるようになったのである。
松田聖子と太平洋戦争…。今はB.C.2010…。
さて、話しは全く換わるが、僕は少し前に例の『THIS IS IT』を観た。寂尊居士である。
正直、僕はこれを観る気満々で行ったのではない。それはもう、強く強く勧められて観に行ったのである。
とは言え、まったく観たくなかった、というわけでもない。なぜなら、僕にだって一応、マイケルに対する、ひとかどの想いくらいはある。その証拠に僕は今でも時々、ムショーに『Human Nature』が聴きたくなる習性で、実際、去年、彼が鬼籍に入る直前も、たまたまHR(何度も聴くこと)で聴いていたのであった。
ところで、この映画の感想は…、めっちゃ良かった!観て良かった。正直、ビートルズの伝説的ドキュメンタリー『レット・イット・ビー』やピストルズの『ザ・グレート・ロックンロール・スウィンドル』の次くらいか、いやいや、映像の価値からいけば、同等ぐらいの素晴らしさであった。
具体的にどの辺が良かったのかというと、マイケルが、彼の息子のような若い世代のダンサー達を前に、「『ビリー・ジーン』はこうやって演るんだよ」と踊って見せるシーン。これは、僕ら、ど真ん中の世代にとって、それがあたかも彼の遺言のように思われて、(ビリー)じ〜んときてしまったのだった。
しかし、やっぱり天才は死ぬな!
それにしても、すっかり忘れていたことだけど、ダンスってええな〜、と思ってしまったよ。柄にもなく…。
はぁ〜、ダンスかぁ〜。
ん?ダンス…!? … 天才…!?
さてさて、まったくどうでもいいことだけど、僕はこれより少し前、実は失業していた。
職を失ったわけである(同じことか)…。
え〜っと、そんなこんながあった頃、僕は家で飯を喰いながら、テレビを観ていた。たまたま映っていたのはフィギュア・スケートの、何んかの大会。
勿論、僕はそれを真剣に観ていたわけではない。
僕は一部の格闘技以外、今では真っ当に、競技というものを鑑賞する趣味はない。
どうも僕にはスポーツというものが、儚(はかな)過ぎる。刹那的に過ぎる。僕は試合が終わった後の、あの醒めた空しさが心に沁みるほうなのであろう。
あ、浅田真央だ。国民的アイドル。ふぅ〜ん。真央ちゃんかぁ〜。
まぁ、別段、どうということもない。モチロンである。
僕は少女愛好の気は薄い。マスコミに煽動されることも、まぁ無い。テレビをほとんど見ないから…。惚れっぽい方でもないし、もっと言えば、フィギュア・スケートというもののファンタジー嗜好≠竍ピュアさ≠フお仕着せ感に、キッパリ、折り合えないほうである。
なので、どうしてその日、飯を喰い終えた後で、わざわざ「浅田真央」と検索してみる気になったのか、はっきり思い出せない。何のフォームで検索したのかというと、例のあれである。動く絵をテキトーにシェアし合う…、まあ、要するにつべ(いや、正確にはニコ動だったか…)。
さすがに人気者だけあって、出てくるわ出てくるわ。
そして、その中に「仮面舞踏会」というのがあった。
浅田真央ちゃんがアラム・ハチャトゥリアン作曲の「仮面舞踏会」で滑る演目だ。
勿論、こういう物を関係各位に無断で視聴することはまったく憚られるわけだが、しかし、結論から言えば、僕は観た!
中学の頃、バイクを盗んで以来、僕は罪の上にも罪を重ねる男なのである。
まぁ、それはともかくとして、僕はこの映像を観て、ちょっと衝撃を受けてしまった。いや、実際、ちょっとどころではない、すご〜く衝撃を受けた。いやいや、かなりかなりブッ飛んでしまった。ちがーうっ! ちがうちがう。物凄く感動してしまったのだっ!物凄くっ!!
なんてこったっ! すげぇ…! 真央ちゃんすげぇーっ! すげー!
かくして、突如、翼をもがれた中年男の前に美少女戦士 浅田真央ちゃん≠ヘ(天使の羽をひらめかせて)降臨したのであった。
その瞬間、僕の寝ぼけまなこは、(そりゃあもう)釘付けとなった。
なんじゃこりゃぁぁぁ〜っ!!
ところで、ここまで読んで頂いた、浅田真央とかフィギュア・スケートに詳しい諸兄におかれましては、きっと、「お前、バカじゃねえの。そこ迄か?しかも、今頃か?」というような呆れた感慨を抱かれていることかもしれませんね。
でも…、いいじゃないですか。だって凄いんだもん…。真央ちゃん。
凄いのも凄いし、だいいち美しいではないですか!!
人間というものが、身ひとつで、あれ程ファンタスティックに美を体現できるものでしょうか?(〃▽〃)
ともかく、こうして、期せずして、僕の中で浅田真央ちゃんという存在が俄然、クローズアップしてきたわけだけど、要するに僕が言いたいことというのは、ここに至るまでに、実に、次のような心の軌跡があったと予想されることである。つまり…、
失業 →一時、戦争に傾倒するも、心の渇きにより、脱戦争 → マイケル・ジャクソン + 松田聖子(クラス最強のアクティブ性と前時代的甘酸っぱさが突如クローズアップ!)= 浅田真央ヽ(´ー`)ノ
さんきゅーつべ(ニコ動だったか…)!
さ・てっと…、ようやくここまで語って、今回の本題に入るわけだけど…、まぁ、何というか、とにもかくにも、今や浅田真央ちゃんである。
しかし、僕としては、完全に盲点であった。テレビをまともに見ないから。
いや、まったく知らなかったわけでもない。僕も一応、日本人だから。しかし、飯を喰いながらチラチラ見ていても、何かもうひとつ伝わらないのである。あの凄み、生き様が。
極限の身体能力で、ダイナミックに悲劇を舞う彼女は、やっぱり凄艶な美しさであった。
あんなのはもう日本の至宝であろうな、…確かに。
また、それと同時に、真央ちゃんという人には、実に様々なことを考えさせられる。あの若さで…(真央ちゃん真央ちゃんと、その辺のお姉ちゃんのように呼び捨てにしているが、今やそんな気安い呼び方さえ憚られる程だ.実際)。
要するに真央ちゃん≠フ魅力とは、観れば観る程、多元的であった。
あの人がこれを演る人で、あんな素顔を持ちつつ、時には、前人未踏の偉業をやってのけ、ちょっと前までこうだったのに、今やこんなに…、といった具合に、変幻自在、万華鏡のように幾つもの顔を持っているように見える。
それはもう、考えられないくらいの落差である。
あるいは、人間の進歩や成長というものを、彼女は信じられないほど短いスパンで生きているように思われる。
その原動力となるのは、察するところ、恐ろしく頑固な素直さなのかもしれない。
可愛い真央ちゃん、壮絶な真央ちゃん、健気な真央ちゃん、勇ましい真央ちゃん、優しい真央ちゃん、孤独な真央ちゃん、カッコいい真央ちゃん、面白い真央ちゃん、美しい真央ちゃん、寂しそうな真央ちゃん、天才の真央ちゃん…。
彼女の場合い、この落差が半端ではない。冗談じゃなく、僕には、度々、それが僅か数年やそこいら以内の同一の女の子とは信じられない瞬間があった。
あたかも、浅田真央という存在は、まったく、個の連続性という偏見の矛盾を、あの神的なさわやかさの中に、突きつけているかのようだ。
これはもう、ちょうど成長期だから、とか、そういう問題では片付けられない。
何より、普段の無邪気な少女としての真央ちゃんと、あれ程、世界の注目の中、幾度も不可能を可能にしてきた奇跡の才能が、同一次元上のものと理解できないのは僕だけではあるまい。
一体、真央ちゃんはどうなってるんだ?という話しである。
それはほとんど、虚構のヒロイズムの世界、例えば、キューティー・ハニーとか、魔女っこメグちゃんとか、セーラームーンとか、何か、そういう荒唐無稽な次元の衝撃だ。
このことは、例えば、他の選手達を考えてみれば、より明確である。
無論、凄さ、華麗さ、超越性ということにかけて、真央ちゃんばかりが素晴らしいわけではない。
4回転ジャンプも可能な安藤美姫や、バンクーバー行きを力ずくでもぎ取った鈴木明子が凄くないわけがない。それに、そもそも、荒川静香(いなばうあ〜o(^-^)o)がオリンピックを制した激震から全ての扉は開かれたのかもしれないし、古くは、伊藤みどりが初めて世界と互角に渡り合ったことや、男子の技術レベルこそ圧倒的な過酷さだ、などと言う人もいる。
勿論、僕はフィギュアについて、まったくのド素人だから、技術レベルの基本的なことさえ、サッパリわかっていないわけだけど、しかし、だからこそわかる。彼女、彼等は皆見るからにやりそうだ≠ニいうことだ。百戦錬磨の修羅場を生き抜いてきた、トップ・アスリートとしての風格がある。あたり前のことだ。正真正銘のトップ・アスリートなのだから。
ただ、その中にして、なぜか浅田真央ちゃんだけが、そうしたストイックでマッチョなイメージからかけ離れた、余りに華奢で、繊細で、いじらしい程の少女っぽさである。男性的な努力と根性の汗臭ささを片鱗も漂わせない、清潔で可憐な女性性そのもののヒーローである。
フィギュア・スケートという、一見、華麗な舞台において、実際には過酷な修練の中で、女性選手も肉体、感性共に男性化してゆくであろうことに対し、変な例えだけど、真央ちゃんだけが、スポーツというより、習い事を究極まで突き詰めたかのような、何と言うか、全く無垢な求道者の涼味がある(まあ、とはいえ、如何に真央ちゃんと言えども、例えば、キム・ヨナが失敗してなければ、負けてたかも…、なんて言われたら、時には、ブタ麺を10杯ヤケ喰いした後、LEGOや犬(エアロ(´・ェ・`)ティアラ(´・ェ・`)小町(´・ェ・`))に蹴りを入れることだってあるにはあるのである。それは…)。
それにしても、あの、いかにも女性的な華奢な肉体の一体何処に、世界最高峰のジャンプを飛び、他の選手より45秒も長いという、超人的なステップを舞い続けられる秘密があるのだろう?
あの、キム・ヨナにしても、華奢に見えて、実は鍛え抜かれたしなやかさと、本質的にギラついた闘争本能を漂わせている。
しかし、真央ちゃんだけが、どうも違う。常識のあり方が違う。あたかもスイッチが入ると、本当に戦闘モードのヒロインに変身するかのような、軌条を逸したミラクル感がある。
根性は根性でも、苦節の果ての、男性化した根性ではなく 、あくまで女の子の根性を見せつけているようなところがある。
最強クラスの能力を持ちながら、余りに切なく、健気に闘うのが真央ちゃん流である。
僕の思うに、ここに彼女の絶大な人気の秘密があると思う。
実力とイメージの常識を越えた距離感。つまり、落差である。
競技という位相を越えて、美学ということにおいて、これを魅力と言わずに、何と言えばいいのだろう。それを、ファンタスティックと言わずして何であろう。
また、それと同時に、努力≠ナもなく、成果≠ナもなく魅力≠ニいうものの絶対性と残酷さを強烈に考えさせられるのである。
ところで、いきなり浅田真央ちゃんの魅力の本質について考えてしまったが、しかし、それもこれも、勿論、銀盤上のあの、アーティストとしての圧倒的な芸術性と詩情があっての話しである。
彼女の演技は狂おしいまでに情熱的で、しかも強烈にエモーショナルだ。更に、東洋人らしからぬ格調の高さ。
何度観ても胸を撃つ。
そのたった一曲の演目が、美を語る上で、伝説のコンテンツに成り得る感触さえある。
まるで、一本の名画のシーンを観るようだ。
演じることの悲しみと、踊ることだけのシンプルな生き様が、強い哀愁となって激しく胸を撃つのである(ここで言う悲しみ≠ニは、例えば、恋愛映画を見て泣くような悲しみのことではない。もっと根源的な、存在の哀しみ。それを発散させることが本当の表現の意義だ)。
これは間違いなく、彼女の身体能力の素晴らしさに加えて、演技者としての突出した感受性の豊かさを物語っている。
それはやっぱり、浅田真央にしか表現出来ない、偉大な世界≠ネのである。
特に僕が感動させられるのは、前にも書いた、ハチャトゥリアン(ロシアの作曲家)の『仮面舞踏会』というやつだ。
これは勿論、真央ちゃんが女子史上初のトリプル・アクセルを二回決めたり、キム・ヨナに次ぐ200点越えを達成したり、はたまた、タチアナ先生(タラソワ・コーチを真央ちゃんはそう呼ぶ o(^-^)o)に師事した最初の演目であったり、このためにロシアに渡ってバレエを本格的に習得したりと、真央ちゃんにとって、パワーの象徴のような、正に最強の一手である(バンクーバーでも、出場を決めた『鐘』と共に、これを持って行くことが決まっている)。
この『仮面舞踏会』という曲は、元々、同名の戯曲のための音楽で、ちらっと調べてみたら、真央ちゃんが使用する荘厳なワルツは、物語りの悲劇のクライマックスで使われる楽章だそうだ(もっとも、この戯曲自体はあまり人気が無く、今では楽曲のみのオーケストレーション版が代名詞となっているという)。
ストーリーは、賭博師の妻、ニーナが、夫から、いわれの無い不貞の嫌疑をかけられ、毒殺されるというもので、真央ちゃんが演じているのは、無論、このニーナという人妻である。
仮面舞踏会の席で、夫に差し出された毒入りアイスクリームを食べ、そうとは知らず、帰宅した後も舞踏会を回想していると、やがて毒が回って絶命してしまう。
そう、真央ちゃんが演じるものとして、これは、一見、余りにシリアスで辛辣な大人の寓話である。強烈にアダルトなテーマなのだ。
こういうテーマを敢えて、あの年頃の真央ちゃんに課した、タラソワさんの深み!ロシア文化の奥行き!怖るべしである。
実際、真央ちゃんの戦歴をざっと見渡してみても、やはり『仮面舞踏会』からが違う。芸術性が違う。それは圧倒的である。
浅田真央陣営はこの曲を得ることで、確実に、文学的奥行きと、映像的イマジネーションの広がりを獲得したと思う。
殊に、この演目の、狂おしいまでのステップの激しさ、華麗さは、かつて無い汚れ役≠死ぬ気で踊り抜く、19才の天才エトワールの人生を鮮やかに昇華させた。
この演目こそ、浅田真央ちゃんが、大人の成熟へ向かうための儀式であり、また、そういうことを要求する大人の国≠ゥら来た指導者に出会えたことが全てだったと思う。
ところで、僕がこのプログラムの筋立てとして、実は、とても気になっているのは、真央ちゃんが技巧を凝らして再現する舞踏会≠フシーンとは、実は、ニーナの回想の中の仮面舞踏会なのかもしれない、ということだ。
最愛の夫の手で盛られた毒が、やがて体に回る刹那、幻影の仮面舞踏会が幕を開ける。例えばそう考えると、これは何と悪魔的、幻惑的なストーリーだろう。
あの、少女の、目眩く成熟のための@ヨ舞曲(ロンド)が、俄然、艶めいた、幻想性を帯びてくるようだ。
さて、舞踏会、悪魔的と言えば、僕的に近年、連想されるのは、行定勲監督の『春の雪』である。
大正ロマンを描いたこの映画の舞踏会のシーン、また音楽の使い方が素晴しい。少し余談になるが、僕にとって、これは、ここ数年、最も、美的に完成された一本である。そして何より、竹内結子の美しさが筆舌に尽くし難い。
上手くは言えないし、幾らか誇大なインスパイアかもしれぬが、実は僕は、真央ちゃんが、あの壮麗なワルツに乗って、大観衆の中心で誇り高く舞う姿に、どことなく、あの映画が持っている、かつて失われた民族的ダイナミズムと表裏を綾なす、心に沁み入る女性美の気高さ、何かそんなものがこみ上げ、胸が熱くなるのだ。
何か、新しくて古典的で、思いがけず凛々しい、日本の晴れ≠フ光景のようだ。
つまり、そんなことまで感じさせてしまう19才の求心力、それこそ、浅田真央ちゃんという人の、恐るべき血統だと思う。
さてさて、ここまでつらつら浅田真央ちゃん、殊に『仮面舞踏会』について考えてきたわけだけど、しかし、彼女の演技には、汲めど尽きせぬ、みょ〜〜に心に残る何かがある。
はっきり言って、競技とかそういう次元のことはそっちのけである。
何しろ、あの、演技に入る瞬間の、息を詰めた姿の美しさ(陶器のようだ。19才の孤独のあの格調高さ!憂いを見よ!)。また、水鳥の呼吸すら伝わってくるようなスパイラルの優雅さ、しなやかさ。他にも、高等技術という片手ビールマン・スピンや、何と言っても、彼女のステップシークエンスの多彩さ、流麗さには、ファンタジーというより芸術の風格がある(因みに言ってしまえば、観る側にとって、真央ちゃんの場合い、転んで立ち上がる姿さえ、ややイイ感じの、被虐感があり、これまた結構なお手並みである)。
無論、フィギュア・スケーターである以上、各種ジャンプの魅力は当然としても、実際、彼女が強力にアピールするステージが、試合のみならず、あの、のびのび演じるエキシビジョン・ナンバーであったりするところが、魅せる$^央ちゃんの本領を示していると言えよう。
また、こうした主戦場に加えて、前にも触れたように、真央ちゃんには、あの、凡人には捉え難い、多彩な表情という面白味もあるわけである。
もっとも、本来ならば、当然、パブリックな演技の部分とパーソナルな事柄を混同して語ってはいけないのだろうけれど、しかし、彼女に限っては、これを完璧に区別することはもう不可能である。魅力ということにかけて…。
しかし、魅力と言えば、だいたい僕は、この世の中で、イケてる女の子が踊る姿ほど美しいものは無いと思っている。だから、その中でも、一番、上手に踊る女の子が世界で一番、美しいのは当然であった。
まあ、そういう意味でも、今やとにかく、浅田真央ちゃんである!僕のような、困ったチュー年男子にも等しく夢を与えてくれるミラクルな娘は真央ちゃんしかいないのである。
こんな時代に、可愛さと気品と壮麗さと超絶技能を両立するという、もう何だかわからない偉業を成し遂げ続ける真央ちゃんは、このままいけば、日本の神々と名を連ねる日も近い!(かも…)
あるいは、真央ちゃんには、美しい月の女神 = アルテミス(狩猟・純潔の女神)として、何時までも、我々、迷える流浪の民を優しく照らし続けて欲しいものである(なんてな)。
さて、僕のようなおっちゃんが、ウイスキーなどちびりちびりやりながら、あの可憐にして奔放な真央ちゃんの肢体を眺めていると、あたかも変態の王道のように思われるかもしれない。
しかし、あにはからんやである。あにはからんやだ。
だって僕は、いかにこんなところで論を展開したところで、所詮、真央ちゃんファンではないし、また、追っかけでもない。じゃあ、何かというと、僕は単なる目撃者である。美の目撃者なのだ。
あ〜あ。にしても、欲しいなぁ〜。こんど出る、真央ちゃんの本、『浅田真央公式写真集 MAO』。
僕にはただ、チラシの裏にマジックで「ま・お」と書いてそっとくちづけすることぐらいしかできないものなぁ。
何故かって、金が無いからだよ。失業して…………(´・ε・`)。
というのは嘘で、実はもうamazonさんで予約注文してしまったのだった! ついつい。
ヤタ〜!! バンザ〜イ!! これで写真に直接くちづけできるぞ〜 ヽ(〃v〃)ノ
さんきゅーあまぞん!!
何やってんだ俺…。
『仮面舞踏会』観たい方こちら / 『鐘』観たい方こちら / EX_『カプリース』観たい方こちら / EX_『ボル・ウナ・カベーサ』観たい方こちら / 2010四大陸選手権表彰式観たい方こちら