こんなことをしても実は何の意味もないのだけれど、もしもかりに何らかの意味があるものならば
わたしはこれから語るこの物語をば、その価値は問わぬにしても、ほんの微かながら粗野磊落な
好色の匂いぐらいはところどころにとどめておりはせぬかと、それを唯一の心頼みに、今は亡き
粗野磊落にして好色の継父、ロバート・アガドギャニアン・ジュニアの思い出に捧げたくなる気持を
禁じがたい。 (…中略…)
豚だと分かるものが豚小屋だと分かるものに入っているように描くことは結構教えることができる。
いや、いかにも絵にあるような豚がいかにも絵にあるような豚小屋に入っているように描くことだって
教えられなくはない。しかし、美しい豚が美しい豚小屋に入っているように描くにはどうしたらよいか…
J.D.サリンジャー/野崎 孝訳 『ナイン・ストーリーズ』中「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」より
太陽は人生の不平等をあらわし神は助言の無意味さをあらわし
レスビアンは何人といえども自由である事をあらわし
砂漠の地平線は永遠をあらわしランナーは狂気をあらわす
蛭子能収 『明るい映画館』中「炎のランナー」より
「旨いコーヒーを一杯くれ、ただし勘定は払わん、俺は恐いもの知らずだ」
ジャン=リュック・ゴダール監督作品 映画『α都市』より
「君は『臨済録』の示衆の章にある有名な文句を知ってるか。『仏に逢うては
仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、…』」
私はあとをつづけた。
「『……羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん』」
「そうだ。あれさ。あの女は羅漢だったんだ」
「それで君は解脱したのか」
「ふん」と柏木は切った杜若の花を揃えて眺めながら言った。「それにはまだ殺し方が足らんさ」
三島由紀夫 『金閣寺』より
おお 人生よぼくに語りかけて
おまえにはぼくが必要なんだと
そしてぼくは答えるだろう
ぼくにはお前が邪魔なのさ
おお ぼくたちに今一番必要なものは
あつい恋や夢でなく
まぶしい空から降ってくる
白雪姫の毒リンゴ
いまの彼女は、自分たちのかわした多くの会話が死の観念のまわりに築かれていたことを思い出さなかったが、それはおそらく
死についてのいかなる観念も現前する死そのものとはいかなる共通点も持たないからであろう。彼女は、人が死以外の何かでありうる
という点で二人の意見が一致したこと、この二つの言葉が一緒になって一つの二律背反をつくりだしたことを、思い出さなかった。
ぼくがフェリーニの映画を特に愛するのは彼のバロック的装飾過多な人工的画面と過剰な演出である。そこには常に聖なるものと俗なる
ものが現実と非現実の領域を超えて混在してフェリーニ独得の宇宙を形成している。ぼくがフェリーニの映画に奇妙なリアリティを抱く
のはきっとこうした現実と非現実を分離しないで平面化してしまったところにあるのだと思う。『カサノバ』や『そして船が行く』の人工的な
海が現実の海以上にリアリティを持つのはそれが幻想に変化するからだ。幻想は現実以上に生々しい感動を誘う。幻想は五感では
知覚できない超感覚の世界での知覚体験であり、非物質的な幻想を物体化(現実化)することは不可能? である。だけどその代行を
映画は実現させてくれる。スクリーンという同一画面の中で現実と幻想が何食わぬ顔で並置されている。
横尾忠則 『ARTのパワースポット』より
都会−閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。
すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。
だから君は、道を見失っても、迷うことは出来ないのだ。
安部公房 『燃えつきた地図』より
言いたげな横顔も同じ窓ごしに消えてく あたたかな生活
少しの朝食と少しの幸せ願う朝に鳩は回ってる
丸みをもつ消えてく飛行機雲 辿りついた道のはずれ
サルヴァドールよ 三歩手前の影 落とした太陽 アルコスの丘へ沈む
Oh slowly days 漂う記憶の残像
ちらぱるよ ダイアモンド 三度見たい
Oh slowly days 束の間に愛よ サルヴァドールに花を
EGO-WRAPPIN`/Yoshie Nakano 作詞 『あしながのサルヴァドール』より
指で描いた 回る空っ風のループ
手のひらに浮かぺて 息切れた都市に見舞う
背で見るあの明日が 悲しみを彩ってみせたら
永遠と刹那の力フェ・オ・レ 冬の空を満たす
キリンジ/堀込泰行 作詞 『アルカディア』より